第16話 理想郷
高校生活を始めてから2回目の週末、金曜日の夜。
一華はシンと一緒に「魔力の訓練、習字、料理、掃除、洗濯、ゴミ捨て」といった、新たな日常を全力で駆け抜けてきた。
夕食後、リビングで翌週の予定を整理していたとき、一華の緊張の糸がぷつりと切れた。
一華はリビングのソファに倒れ込み、悲鳴にも似た声を上げる。
「シン、もうムリ……っ!」
シンは一華の魔力の流れが急激に乱れたのを感じ、すぐさま一華の隣に座る。
「一華! どうした。体調が悪いのか?」
一華は顔を覆いながら吐露する。
「違う、違うの。授業を受けた後も、毎日訓練、習字、家事、家事……。来週も毎日これが続くんだって思ったら恐怖だよ。課題もあるし、どれもやらないわけにはいかないし!」
シンは冷静に、しかし共感をもって告げる。
「わかった。一華のストレスは危険水域だ。まずは、優先度の高いものに抑えるか?」
「お願い……!」
藁にもすがる思いの一華の言葉にシンは即座に判断を下す。
「習字は、今のところ『書ければいい』レベルに抑えよう。料理は、生活が軌道に乗るまで簡単なもののみにして、お弁当や総菜で賄う。偶には外食もOKにしよう。」
「いいの!?」
一華は一瞬驚きのあと、安堵で笑顔になる。
シンは一華の笑顔に微笑んだ。
「ああ。そして、掃除と洗濯は、魔力で俺がやるよ。」
一華は心配する。
「ダメだよ! 学校の護衛任務もあるのに、シンに無理がかかるよ!」
「大丈夫だ、どうってことないよ。魔界ではこれぐらい日常さ。俺の魔力なら、この程度の家事など一瞬で終わる。」
「……。」
一華は申し訳なさと安堵で俯き、声にならない。
「魔力訓練は重要だ。月華草茶を毎日飲んで、少ない時間に集中して毎日行うか? それが一番安全だ。」
安堵した後、一華の思考は、この「無理」の原因である人間界のシステムに向かった。
「ねぇ、シン。時々思うんだけど、人間って損してるよね。」
シンは眉をひそめて聞く。
「損?」
「うん。人間は、やりたいこと以外の事が毎日のほとんどの時間にとられているじゃない? でも、魔界人になれば、魔力で時間を短縮できて、やりたいこと優先で人生が楽しそうだし。人間は魔界人と結婚して一緒になれば、子供の世代からは良くなりそうだけど……。」
シンは真剣に考える。
一華はハッとして、自分の発言の重大さに気づく。
「あ、ごめん。魔界人としてはプラスにならないか。別々に存在するのも理由があるよね。ただ頭に浮かんだことを口にしただけだから、忘れて!」
シンは冷静に言う。
「人間界が魔界に吸収されることになるってことだが……人間にとって、それは本当に良いことなのか?」
一華はシンの言葉にハッとして顔を上げる。
「人間界にとって良いかはわからないけど、魔界人と仲良くなって受け入れることができれば、助かる人はいっぱいいそうだけど……。事故や事件・災害から避難出来たり、重い物持ったり。」
一華はすぐに悲しい現実を思い出す。
「でも、いい人ばかりじゃないから……利用しようとする人間もいるし。」
「俺は……」
一華は、シンが何かを言いかける前に、自分が「人間は魔界人を利用したいだけだ」というニュアンスで話してしまったことに気づいた。
一華は慌ててシンの手を握り、彼の言葉を遮る。
「その先、ちょっと待って! 言い方間違えた! シンは初めて人間界にきて、ジェットコースターやお寿司のワサビとか、色々体験したでしょ。私から見ても、楽しそうだったんだけど? どう?」
シンは一華の不安を和らげるように、穏やかな表情に戻って言う。
「楽しかった。たぶん、俺以外の魔界人でも、純粋に楽しめると思う。」
一華は安堵し、シンの手を握りしめる。
「良かった。間違ってなかった。そういうのを他の魔界人も一緒に楽しめたらって思っただけだから。人間が魔力を利用したいだけじゃないの。」
「持ちつ持たれつって言葉、わかる?」
「互いに助けたり助けられたりすること?」
「うん、そう! 人間と魔界人の関係で、それができるっていうのが理想的なんじゃないかな、と。」
「でも、今の人間界では詐欺や強盗、更に戦争も起きているから、魔界人と仲良くなれば、きっと魔力を利用してしまうと思う。だから、今は絶対無理だけど……。」
一華は続ける。
「人間界はいろんな国に分かれていて、それぞれにトップがいて、自国の事を優先するのは仕方ないけど、自国だけが良ければ全て良しとするところがあると思う。人間界をまとめる人がいないことが問題なんだと思う。」
一華は再び現実の壁にぶつかる。
「それに比べて、魔界はパパの魔王がトップにいて、できるのに人間界を侵略することなく一線を画しているし、次期魔王であるシンも人間界を侵略なんてしないでしょ。むしろ楽しんでくれてる。魔界のトップにいる人たちが良い人たちなので、人間は安心して居られる。」
一華はシンの手を見ながら謝る。
「何も考えなく口に出してごめんなさい。今みたいに魔力を隠して生活することなく、仲良く共存したかっただけなの。」
シンは一華の小さな手を見つめ、静かにその理想を受け止める。
「一華の言いたいことはわかった。俺のいる世界は、平和を愛する世界だ。」
シンは力強く続ける。
「ただ、魔力を隠すのは、やっぱり悪意の目に晒されないようにするために必要なことだと思う。俺が魔王になったとしても、一華を守りたいから。」
「……うん。」
一華はシンの言葉の重さを理解し、静かに頷き、繋いだシンとの手に視線を落とし、ぽつり続けて言う。
「それとね、私が黒猫の仁華になっちゃうのって、ただの厄介な魔力暴走じゃなくて、何か意味があるんじゃないかと。誰か何かのために変身する必要があったんじゃないかって思いたいというのもあるから。」
シンは驚きと共に、深く考える表情になる。
「……誰か何かのため、か。」
顔を上げ、シンを見つめる一華。
「だって、黒猫になると、体が軽くて、夜目も利いて、すっごく素早く動けるでしょ? 月夜に、もし誰かが困っていたら、仁華としてなら助けられるかもしれない。この特別な力が、私の欠点じゃなくて、使命みたいなものだったら……そう思うと、受け入れられる気がするの。」
シンは一華の言葉に、強い衝撃を受ける。シンはこれまで、黒猫化を「一華の危険因子」としてのみ捉えてきたからだ。
(魔力暴走を「使命」として捉えるのか……。この発想は、俺にはなかった。一華は、与えられた運命をただ受け入れるだけでなく、「意味」を持たせようとしている。)
シンは一華の手を優しく握り返し、真剣な声で言う。
「一華。君のその考え方は、とても強靭で、素晴らしい。俺たちは、黒猫の仁華を『悪』としてではなく、『特別な形態』として捉え直すべきかもしれない。今はまだ、黒猫仁華は一華の意思とは関係なく誕生してしまう。もし、一華が完全に魔力を制御できるようになった未来で、一華の意志で黒猫仁華に変身し、誰かを助ける道を選ぶのなら、俺は一華の隣で、その使命を共に果たす。」
「シンも一緒に意味を見出してくれるの?」
「ああ。一華の魔力は特別な力だ。一華がそこに希望を見出すなら、俺はそれを護衛する。それにはまずは、制御だ。誰かを助けるためには、まず一華自身が完全に力をコントロールできなければならない。その力を、一華自身の意志で、善のために使えるように。そのための訓練だ。」
感動で胸がいっぱいになる一華。訓練の疲れや家事の不満が吹き飛んだ。
「ありがとう、シン! 私、頑張る! 仁華をヒーローにする!」
シンは心の中で、一華という存在の可能性の大きさを再認識する。
(この発想こそが、一華が魔王の娘である所以か。俺の任務は、一華の体を守るだけでなく、この、善なる意思を守り、育て上げることにあるのか。)




