第三章:愚者の病(風) ― 〃 ―
◆ 風 ― 在り処(下)
絵を描き続けるうちに、少しずつ、僕は他人の目に触れるようになった。
小さな展覧会で作品が壁に飾られ、数少ない知人の紹介を通じて、ぽつぽつと仕事の依頼も届くようになった。
「面白い発想ですね」
「個性的で、あなたらしい」
――それは、嬉しい言葉のはずだった。けれど同時に、胸の奥を鈍く揺さぶった。
「個性的」
それはかつて、僕を突き放した言葉。
「変わっている」「わかりにくい」「みんなと違う」
……分かっているとも。
彼らが悪意なくそう言っているのも、
今の僕があるのは、その「個性」あってこそだということも。
けれど――あの頃の恐怖が、形を変えて蘇る。
何の取り柄もない平凡な僕は、代わり映えのない日常を過ごしていただけだった。
ただ、みんなより声が小さいというだけで「異質」とたらしめられた。
――その理由を、嬉しい言葉だなんて思えるはずがない。
個性という、世界との境界を侵食していく腫瘍のようなものが、どうしても僕には毒だった。
みんなと同じでありたかった。
けれど、誰かと違う何かを持っていたかった。
その二つの願いが、ずっと僕を引き裂き続ける。
もし、このまま描き続けることが、また誰かの冷笑を浴びることになるのなら――
僕は、僕を守れるだろうか。
古ぼけた、ちっぽけな心の蟠りが、いまだ僕を脅かし続けている。
そんな不安が膨らみかけたとき、遠くから声が聞こえた。
どうやら、街角のスピーカーが誰かの演説を流しているようだった。
「恐れながらでも前に進め」
「怖くてもいい、体は動かせる」
「私たちの望む世界は、私たちにしか創れない」
相変わらず、ひどく無責任な言葉だと思った。
でも、なぜかこの時だけ、あんな安っぽい言葉が、不安や古傷を見えないヴェールのように包んでくれた。
──そうだ。僕は僕のために描いている。
誰の評価のためでもない。
称賛も、批判も、僕の線には関係ない。
そう、いとも容易く僕を前に進ませた。
僕は描き続けた。
美しい構図の中に、孤独を織り交ぜて。
緻密な筆致に、哀願と焦燥を塗り重ねて。
睡眠も食事も、煩わしく感じて削った。
誰かがかけてくれる優しい言葉さえ、毒のように感じられた。
「その優しさは僕を殺すためのもの」
「立ち止まった僕を、きっと彼らは蔑む」
守れるのは、自分しかいないのだ。
ただ「前へ進む」という一点にすべてを注いだ。
自分の世界を描いている瞬間だけは、描くことだけが、雑音を閉じ込める手段だった。
やがて作品は評価され始めた。
「熱量がすごい」「情熱的だ」「目が離せない」
嬉しかった。確かに嬉しかった。
でも、そのたびに、何かが抜け落ちていくのも感じていた。
成功を重ねるごとに、止まることへの恐怖が膨らんでいった。
走ることが、生きることになっていた。
止まることは、死ぬことよりも怖かった。
──でも、
それでも、構わないじゃないか。
描くことが、僕を繋ぎとめてくれるのなら。
描くことでしか、自分を肯定できないのなら。
そうだろう?
耳を澄ませば、もう一人の自分が囁いてくれる。
「大丈夫」
「間違ってないよ」
あの頃からずっと変わらない、小さくか細い声。
それを無視してはいけない。
僕だけは、この声を見捨ててはいけない。
──そうだ。
僕は、間違ってなんかいない。
僕は──壊れてなんかいない。
静かに、深く息を吸う。
肺の奥に、何かをしまい込むように。
そしてまた、白い紙の上に、線を描き始める。
僕が僕を見失わないために。
──今日もまた、僕は描いている。




