第三章:愚者の病(闇) ― 〃 ―
◆ 闇 ― 怨み(上)
※暴力描写や精神的に重い内容が含まれています。心身のご負担を感じる方は閲覧にご注意ください。
曇りガラスの向こうに、月明かりがぼんやりと差し込んでいた。
夜になると、部屋の中が一層冷えた。
よく見えない窓の外をぼんやり見つめていると、
まるで世界に、自分ひとりしか存在しないような錯覚に陥った。
──いや、違う。
家の中には、灯りひとつない闇が広がり、その中に母がいた。
母の泣き声は、いつも台所から聞こえていた。
冬の夜はことさら冷たく、鍋の音に紛れて、母の嗚咽がぼそぼそと響いていた。
──母さん、もう泣かないで。
幼い頃の俺はそう思った。
だからある日、殴られている母の前に立った。
本当は、怖くてたまらなかった。
膝も声も震えて、頭が真っ白になった。
それでも──
このままじゃだめだって、ずっと思っていたから。
今日で何かが変わるんじゃないかって、そう思ったから。
でも、次の瞬間、何のためらいもなく、父の拳が俺の顔を打ち抜いた。
痛みよりも、空気が一気に抜けたような感覚だった。
そのまま倒れそうになった俺の胸を、父は容赦なく蹴りつけた。
何度も、何度も、何度も、何度も──
……その日から、母が泣くことは減った。
俺が代わりに泣いていたから。
それでも、母は一度も俺を抱きしめなかった。
傷ついた俺を見ても、背を向けて、
「なんで私ばっかり」と呟くだけだった。
──ああ、俺は間違っていたらしい。
誰かを守れば、誰かが喜ぶはずだった。
それなのに、母は俺の傷に目もくれず、
何も言わずに、俺の足を踏みつけていった。
あれが最初だった。
この世の仕組みを理解しはじめたのは。
人は、自分が得をするときしか優しくしない。
損をしている人間には微笑まない。
それでも俺は、いろんな人に手を差し出した。
借金に追われて泣きついてきた友人に、見捨てられなくて金を貸した。
怒鳴る父のために酒とたばこを買いに行った。
知人に責任をなすりつけられても、黙って謝った。
そのたびに、ほんの少しだけ、期待してしまっていた。
「ありがとう」とか、「助かったよ」とか。
俺の目をみて、言葉だけでも欲しかった。
でも、みんな俺を踏み台にしていった。
まるで、俺なんて端からいなかったように。
差し出した手は、何度も踏みつけられ、泥にまみれ、最後には──
音も立てずに、静かに折れた。
「なんで、俺ばっかり」
ああ、そうだ。
俺がこんなふうになったのは、全部お前らのせいだ。
俺が壊れていくのを、誰一人として止めなかった。
……いや、違うな。
俺に手を差し伸べた奴らもいた。
善人ぶって、最後には俺を見捨てた。
傷を見て、冗談みたいな笑顔で誤魔化して──
まるで“気づかなかった”ふりをして、静かに離れていった。
どうせ、あいつらも俺を嗤っていたんだろう。
……もう、いらない。
そんな汚れた手、誰が取るものか。
次に"善人"が現れたら、
俺はその手を引きずり込んで、共に沈めてやろう。
必ずそいつを壊してやろう。
……俺は、気づいてしまった。
「救われたい」と言いながら、
本当は、誰かを傷つけたくて仕方がなかったんだと。
この心の奥にある黒い塊。
それだけが、俺の温もりだった。
台所で泣いていた母の背中に、もう一度声をかけられるのなら。
今の俺は何て言葉をかけるのだろう。
「母さん、泣かないで」じゃなくて。
──ああ、いや、いまさら何を思っても、どうせ全部無駄だ。




