第三章:愚者の病(雨) ― 町へと至る前の物語 ―
◆ 雨 ― 失われた色(上)
母が亡くなってから、料理も裁縫も、すべて自分でやらなければならなくなった。
生まれつき不器用だから、包丁で切ったり針で刺したりして、よく指先から血が滲んだ。
「ああ、またやっちゃった」
そう呟いて顔を上げると、窓の向こうに広がる庭が見えた。
幼い頃、彼と駆け回った庭の草は、夏らしく鮮やかな黄色に染まり、
ちらほらと青い花が咲いている。
──昔、彼が言っていた。
「綺麗な緑だね」
彼の世界には、私の知らない緑があった。
私の世界には、彼の知らない黄色があった。
正直、私にはその緑が想像できなかったし、
ずっと不思議だったけれど、それでも彼の言う緑はどこか特別で、
私は彼が話す『色』の世界が好きだった。
あぁ、思えば……もうずいぶんと彼に会っていない。
幼なじみの彼に、胸の奥をそっと震わせながら花を贈ったあの日から。
村にひとつだけある、品揃えの少ない花屋さんで買った花だった。
彼に花を贈るのは初めてで、何もわからないまま選んだのは、
花びらが繊細に重なり合った、まるでドレスのような薔薇だった。
──店主は「黄色がお好きなんですか?」と笑っていたけれど、
よくわからなかったから、曖昧に頷いた。
待ち合わせた町の広場で、彼に薔薇を手渡した。
少しは喜んでくれると思ったのだけれど、
彼はどこか寂しそうな顔をしていた。
「そうか。そうか。これからもよろしく」
そう言い残して、彼は歩き去った。
……なんて、冷たい人。
「綺麗な色だね」って言ってほしかったのに。
ねえ、あなたには、あの花は何色に見えていたのかしら。
あれから知ったのだけれど、
赤い薔薇は「あなたを愛しています」って花言葉があるそうよ。
いつか、あなたと同じ色が見える日が来るなら、
たぶん私は、私が見ている赤を、あなたに手渡したいだけなんだろうな。




