第三章:愚者の病(影) ― 〃 ―
◆ 影 ― 悪意(下)
教会へ何度も通うたび、私はあの夏を思い出す。
夕暮れの村は薄暗く、風は冷たく、木々はざわめき、空気は重い。
どこかで誰かが泣き叫ぶ声が、耳を劈く。
広場には大勢の村人が集まっていた。
中央には、捕らえられた一人の女性。
幼いわたしは、兄の帰りを待ちながら、輪の外で震えていた。
「悪魔と契約した裏切り者が!」
怒号が飛び交い、憎悪の視線が一斉に注がれる。
「嘘つきめ!」
「魔女を殺せ!でないと次は俺たちが呪われる!」
「この恥さらしが」
さらに集まる大人たちに少しずつ押しつぶされ、
大人たちの声に、気付けばわたしの小さな声も溶けていった。
「彼女が呪いをかけたんです」
こんなもの嘘でしかなかった。けれど、言葉が口をついて出ていた。
子どもたちには、女性の姿さえ、大きな背中の壁に阻まれて見えなかったのに。
――はやく終わって、ここから出してほしい。
それだけが、あの時のわたしを支配していた。
隣に住むおばあさんは、こんな声で人を罵ったことなどなかった。
猫を撫でてくれたお兄ちゃんも、こんな恐ろしい顔じゃなかった。
きっとここは、わたしの住む村じゃない。だから早く逃げたかった。終わってほしかった。
「はやく、あの魔女を殺して!」
誰かの言葉を借りて繰り返し叫んだ。
その瞬間、わたしは紛れもない加害者となった。
わたしの声を聞いて、手を繋ぎ合っていた同じ歳の女の子が続いた。
大人たちは泣き訴える子どもたちを輪の内へ飲み込んでいった。
胸の奥が氷のように冷えた。
逃げられない。
わたしの言葉が、誰かの命を奪う刃になっていく。
わたしたちはやがて魔女の前に立たされ、
虚ろな目で投げつけられる罵倒と石を受けている姿を見た。
泣き叫ぶ声はもはやなく、ただ身体を震わせ、
魔女は項垂れるだけで、ただ地面と大人たちの足元を見ていた。
でも、一度だけ、不意に目が合った。
青ざめた顔、震える唇。
わたしはすぐに目を逸らし、もう二度と見られなかった。
それから心の中で「ごめんなさい」と何度も繰り返し、唇を強く噛んだ。
口の中が鉄の味でいっぱいになる。
それでも一瞬、見てしまった。
目の端にひとつ、見覚えのあるホクロを。
病弱な彼女がいつも身につけていた、淡い黄色のブランケットを。
あれは――わたしの親友のお姉ちゃんだった。
あの時のわたしは、虚言で“お姉ちゃん”を迫害し、殺めてしまった。
恐怖が村を覆っていたとしても、あの行為は決して赦されない。
私は自分の中に潜む悪魔をたしかに見た。
その悪魔は、きっと村の誰の心にも潜んでいたのだろう。
そしてすべてが終わったあとに知った。
あの混沌を呼んだ多くの死は、森の動物が媒介した病だったことを。
魔女なんて、最初からいなかったことを……
その後、私は何度も教会を訪れ懺悔した。
いつも、年配の神父は酒の匂いを纏い同じことを繰り返した。
あれは仕方のないことだった、誰も悪くはない、と。
ただ、それだけ。
そうか、そうなのか。
なら、この村は赦されればいい。
神への懺悔により罪を洗い流せばいい。
父も兄も村の人々も、潜む悪魔を否定し続ければいい。
けれど、私はわたしを赦さない。
肯定され、赦され、光差す何もかもを否定する。
潜む悪魔を見ないふりなどもうできない。
わたしの罪は、いつまでも消えないのだから。
誰かが持つ罪が、いつかわたしが犯す罪になるのだから。
故に私は、わたしを殺し続ける正義を持ちたいのだ。
少し前の私は、寂しいなどと考えていたけれど、
罪を孕む私から離れていった兄の判断は正解だったと、今は思う。
悪魔を擁護する必要など無い。
私は絶えず罪を自覚する。
『私は被害者、あなたは加害者』
……違う。
『あなたは加害者、私も加害者』
……まだ足りない。
『あなたは被害者、私が加害者』
これがいい。
かつて出会ったあなたを、いずれ出会うあなたを、
加害者にしてしまう私こそが加害者。
私はわたしを知っている。
かつての罪を知っている。
一つの罪を犯した罪人である私は、
これからも過ちを犯す狂人なのだ。
ある日、私はまた教会の懺悔室を訪れた。
いつものような酒の匂いはせず、
今までとは違う司祭様が、格子の向こうに座っている。
「父と子と聖霊の御名によって。汝に救いがあらんことを」
……聞こえたのは、懐かしい声。
柔らかくて、優しい――私は、この声が好きだった。
いつも名前を呼んでくれた、蝶のように軽やかな声…
罪人である私が……あの日から、ずっと会いたいと願ってしまっていた、
かつて兄と呼んだその人に、私はようやくこうして向き合う。
兄さん……ううん、神父さま。
変わらず愚かで、罪深い私の懺悔を、あの夏の話を――聞いてくださいますか。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
ついに懐古談が終わってしまいました...。
次回は、明日10月11日(土)に更新予定です。




