第三章:愚者の病(時計塔) ― 〃 ―
◆ 時計塔 ― 自愛を持たぬ者(下)
※精神的に重い内容が含まれています。心身のご負担を感じる方は閲覧にご注意ください。
私は道化だった。
誰にでも愛想笑いをつくり、誰かの笑顔のために滑稽な仮面を丁寧に貼りつけた。
しゃべらず、誰かの幸せのために転び、滑り、拍手を乞う。
それが私に与えられた役割。
誰かのために生き、誰かの役に立っているのなら、
痛みも、涙も、逃げ出したい気持ちすら言い訳にはならなかった。
かつて、誰かが言っていた。
「努力は、見えないものだ」と。
いつも、誰かが言っていた。
「善行は、必ず誰かが見ている」と。
幼かった私は、どちらの言葉も疑いなく信じていた。
だから誰の目にも触れぬ場所で黙々と働き、陰ながら徳を積もうと努めた。
褒められるためじゃない。ただ、自分を磨くため。
そう言って、幼い私は無邪気に笑っていた。
陽気に、軽やかに、輪を乱さぬよう、皆が同じステップを踏み踊る。
次々と手を取りながら、調和を守って繰り返す。
一歩、二歩、回って、戻る。
また一歩、二歩、ときどきよろけるふりをして、おどけながら笑いを取る。
拍手を浴び、笑い声に紛れて……そしてまた、手を取り、輪を描く。
楽しげに踊り、真面目にふざけて、真剣に輪を歪ませていく。
――数十年、私はこうして、求められる道化を全うしていた。
だが、時が経つにつれ、私は不満を覚えるようになった。
誰の目にも触れぬ努力を、一体いつまで続ければ認めてもらえるのか。
この陰に積み上げた善意は、本当に誰かの眼に届くのか。
そんな問いが、胸の奥でじわじわと腐っていった。
私は次第に、欲で濁った努力や善意を、必死に取り繕うようになった。
みっともなく、嘘の笑顔を重ねた。
時には勤勉そうに振る舞い、またある時には愚直なふりをして、いつも誠実を装った。
空っぽの言葉を繕い、期待される「正しさ」を演じ続けた。
私は相も変わらず、もつれる足を演出し、次々と手を取りながら、最後には輪に戻る。
――はずだった。
けれど、いつからか私は、本当に歪まずにはいられなくなっていた。
恐れながら踊り、意図なくおどけ、無自覚に輪を乱す。
目も当てられぬ酷い有り様だ。
……どうやら私は、本当に壊れてしまったらしい。
やがて、道化の役目を果たすことができなくなった私は、ただの滑稽な人形になった。
頑固に張り付き馴染んだ仮面は、私の表情を隠し続けた。
……私は、何がしたかったのだろう。
道化になる前は、一体何を望んでいたのだろう。……分からない。思い出せない。
そもそも、本当に何かを望んでいたのだろうか。
私は必死に記憶を探り、生き甲斐を見つけようとした。
そして、日が静かに傾き、影がわずかに伸びる頃、ようやく見つけた。
あの、いつも「必ず誰かが見ている」と私へ唱えていたあの人。
あの人に私の善行と努力を見てもらおう。
きっとあの人なら認めてくれる。
いつもそばにいて、いつも私を見守っていると言っていたあの人に……私はずっと、褒めてほしかったんだ。
私は、道化としてあらゆる努力をしてきた。
上手に滑って転ぶよう練習し、仮面に見合う身の丈に合わない大げさな動作を習得し、目眩のするような独特なリズムで飛び跳ねた。
私は、誰でもない一人の人間として善良であろうと努めた。
泣いている子どもに遠くからシャボン玉を飛ばし、名もなき手紙を通して誰かの孤独に寄り添った。
笑い去って行く諸人が吐き捨てた火を消し続け、人の目が届かぬところで花に水を与え、見過ごされた欠片を拾い続けた。
あわよくば、誰かが私の内側に気づいてくれるのではないか――
そんな淡い期待を手放せず、仮面をつけたまま、飽くことなく演じ続けた。
けれど――
私は、結局何ものにもなれないまま、壊れただけだった。
でも大丈夫、私はきっと、まだ道化であり続けられる。
あの人に認めてもらえれば、私はきっと、もっとおどけられるはず。
私は、あの人を舞台へ招待し、一生懸命踊った。
陽気に、慎重に、輪を乱さぬよう、皆と同じステップを踏み踊る。
次々と手を取りながら、調和を崩さず繰り返す。
一歩、二歩……回って、
また一歩、二歩、ときどきよろけながら、誤魔化しながら笑いを取る。
拍手を浴び、笑い声に紛れて……そしてまた、手を取り、なんとか輪に戻る。
楽しげに踊り、真面目におどけて、必死に輪を歪ませた。
けれど、そんな私を誰ひとりとして見てはいない。
内側を覗こうとする者は、とうとう現れることはなかった。
……どこにも、いなかったのだ。
――悲しかった。
かつて言葉と愛をくれたはずの人は、私の舞台には現れなかった。
私の滑稽も、努力も、あの人にとっては見る価値がなかったのだろうか。
あなたに、笑ってほしかった。
あなたに、認めてほしかった。
あなたが教え、褒めてくれた踊りを熟し、あなたが望んだ努力もした。
足掻いたのに、何も残せず、何も掴めなかった。
ここまで来ても、誰ひとり認めてはくれなかった。
私は何も成せず、無様に足掻いても、何の価値もない。
『良い人』の仮面を丁寧にかぶり続けていた私は、結局何ものにもなれなかった。
……なら私は、もう何もしたくない。
望むことも、進むことも、全部したくない。
私は、変わりたくない。
なぜ変わろうとするのか。どう変わりたいのか。
変わって、一体何になるのか。――私はもう、分からない。
――ほどなくして、私は目的もなく虚ろに彷徨いはじめた。
時間は静かに降り積もり、ある日ふと、この胸の奥を締めつけ続ける言葉を殴り書いた。
救いがあるとは思えなかったけれど、それでも、真っ白な二枚の紙に私のすべてを綴った。
それは、私の最初で最後の告白だった。




