第三章:愚者の病(時計塔) ― 〃 ―
◆ 時計塔 ― 自愛を持たぬ者(上)
※精神的に重い内容が含まれています。心身のご負担を感じる方は閲覧にご注意ください。
ギシギシと鉄の軋む音が、古い階段に響いている。
私は踊り場の手すりに身を預けて、ただ空を眺める。
白い雲がゆっくりと流れている。
青空に溶けていくように、静かに滲んでは、消えていく。
そういえば昔も、私はこうして澄んだ空を眺めていた気がする。
踊り場の床には、誰のものとも知れぬ足跡が幾重にも重なっていた。
気まぐれにその跡をなぞり歩き方を真似てみると、陽気な旋律のように感じられた。
誰もが知っている、あの祭りの調べ。
足を交差させ、決まったステップを踏んでいく。
一歩、二歩、回って、戻る。
また一歩、二歩、回って、戻る。
何度も足がもつれ、タイミングを外す。
踏み出したつもりの足は、いつの間にか逆の足になり、戻るべき場所にも戻れない。
一歩だけずれたまま、私はまた円を描いて回り続ける。
やがて足元には、わずかに歪んだ円が静かに広がっていた。
私が踏みしめるたび、円は揺れ、歪み、私だけがどこにも還れない。
ふと足を止めて、ひと息つき、もう一度空を見上げる。
遠くから、ときおり笑い声が聞こえてくる。
それは楽しげで、どこか懐かしくて――
けれど、いつも遠くへ行ってしまう。
私には関係のないもの。
――私は、笑わない。泣きもしない。
ただ、ここに立っている。
鉄の手すりを指先でなぞりながら、
私は今日も、同じ時間に、同じ景色を見つめている。
風が吹き、旗が揺れる。
扉は開き、人々が行き交う。
足音は次第に遠のき、ここには誰も来ない。
ただぼんやりと忙しなく歩き続ける人々を眺めていると、すぐ近くで物音がした。
……紙の音。
風にあおられて、紙が靡いている音だ。
音の出どころを探すと、階段のタイルが欠けた隙間に二枚の紙が挟まれていた。
中身を覗かぬべきか迷ったが、好奇心に負けて、そっと折られていた紙を広げる。
そこには、荒々しく書き殴られた言葉が並んでいた。
「やりたいことなんてない
ただ生きて、ただ死にたい――それが私の夢。
味気ない、つまらない、あーあ。
昔はもう少しマシだった。少なくとも今よりは。
人と話すのも、今よりずっと好きだった。
もっと自由があったし、好きなものを探す余裕もあったはずなんだ。
でも、それだって全部無駄なことに思えてしまっていたんだよ。
『どうせ死ぬのに』とか、『どうせ偽物の自由に泳がされてるだけ』とか――
そんなふうに考えていた。
他人が夢中になって好きを探す姿を見るたび、
それがまるで芝居のように思えて、どうにも冷めてしまって。
本気になっているフリをして、
自分で自分を騙してるだけじゃないかって――
いつも、どこか斜めから見てたんだよな。」
思いの丈をぶつけるように綴られた言葉が、まだ続いていた。
なぜ、こんな場所にこんなものが置かれていたのか――不思議だった。
今さらになって他人の手紙を読んでしまったことを悔いて、
そっと紙を閉じ、元の場所へと戻した。
……覗いてしまった罪悪感を紛らわせるように、
遠くを歩く人々を視界に入れるため、私は視線を少し下げ、手すりに手をかけた。
視線の先には、通りに売られている嗜好品に目を向ける人、
転ばぬように足元ばかりを見て歩く人、
あるいは私と同じように、ふと空を見上げて、またすぐに歩き出してしまう人がいた。
なぜ歩くのだろう。どこを目指しているのだろう。
その先には、一体何があるのだろう――そんなことを思う。
だけど、答えは分からない。
「……私には、やりたいことなんてない」
ぽつりとこぼれた本音。
誰にも届かない独り言。
言葉は空へと消えていった。
………。
…。
――あれ、私は、
私はあの文字を、知っている。
そう思って、またタイルの欠けた隙間に挟まれた紙を手に取った。
――ああ、そうだ。この手紙。
この書き殴られた言葉は、私自身のもの。
そうだ、また私は忘れていたんだ。
忘れることで、何度も昨日と今日の境目は薄れ、
私が何を願い、何を怖れていたのかも、どんどん霞んでいっていた。
手紙の続きには、荒々しい筆跡のまま、こう書かれていた。
「今では後悔している。なんて勿体ないことを、と。
もう少しだけ、素直に信じてみてもよかったのかもしれない――なんて、ね。
……でも、それでも。
『どうせできやしない』
『足掻いたところで、意味なんてない』
そんな言葉が、まるで蔓のように、心の奥で絡みついて離れない。
努力も、自由も、人生そのものさえも。
私のものだとしたら、きっと、最初から腐っているに違いない――
そんなふうに、思えてならない。」
紙を持ったままの腕が重たく感じて、ゆっくりと沈んでいく。
…苦しい。
絡まる蔓が、脆い胸の奥を締め付けるように苦しい。
そう、私はただ、この苦しさから逃げたくて、忘れたくて……
答えが分かっていても、自分の醜態を知っても、何も決断することができない。
ただ同じ思考をぐるぐると、また繰り返す。
――私は空の光を拒むように視線を落とし、ただ黙って俯いた。
風が頬を撫で、旗は鈍く揺れる。
どこかで扉の閉まる音がする。
人々の足音は遠ざかり、
立ち止まったままの私だけが、静かに取り残されていた。




