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第三章:愚者の病(霧) ― 〃 ―

◆ 霧 ― 朧夜(下)

※暴力描写や精神的に重い内容が含まれています。心身のご負担を感じる方は閲覧にご注意ください。

ある夜、空はやけに静かに晴れていた。

台風の影響で停電になった街は、まるで知らない場所のように冷たく澄んでいた。

異様なほど青く光る月が、遠く離れた教会の輪郭さえ浮かび上がらせている。

星の光はやわらかく、地面には濡れた影を落としていた。


胸の奥がドクドクと鳴っていた。

あれほど続いていた吐き気も、震えも消えている。

頭の中が冴えて、世界のすべてが自分を歓迎しているような気がした。


――今度こそ、変われるかな。


ふと、そんな言葉が口の中で転がった。

声に出したつもりはなかったが、確かに喉が震えた。


そのときだった。

道の向こうから、ひとつの人影が現れた。

街灯もないはずなのに、影は歪みながらゆっくりと揺れて、こちらに向かってくる。

見覚えのある歩き方で、胸の奥がざわついた。


あれは、十年ぶりの旧友。


彼は何も言わなかった。

俺も、言葉を探せなかった。

ただ、子どもの頃のように、彼がこちらへ走ってくるのを、じっと待っていた。

かつて金を借りたまま逃げた俺だが、

この時だけは逃げるわけでもなく、ただ、立ち尽くした。


俺は笑っていた。こんな時でも笑えてしまった。

「はは、ははは……」


懐かしい友人の名前を呼ぼうと息を吸った。

そして、笑顔のまま名前を呼んだ瞬間、彼の顔がゆがんだ。

怒りじゃない。あれは、泣きそうな顔だった。

何か言おうとして、言葉にならなかったような――

その瞬間、右手が動いた。

ポケットから刃が飛び出して、俺の胸に突き立った。


衝撃が走る。皮膚を割って、肉を裂いて――

骨の手前で止まる感覚。

痛みと熱が同時に溢れる。肺の奥から空気が漏れ、声が出ない。

つい、相手の右手に手が伸びる。

力の入らない手で、俺よりも冷えた腕を掴んだ。


俺が言えたことじゃないが、もう少しだけ友の顔を見たかった。

話せないことも残念だ。残念だが…

あぁ、やっとかと思った。

やっと来たか。


待ち望んでいた『事故』が、いま目の前にある。

責任は俺じゃない。俺は刺されたのだ。俺のせいじゃない。


…でも、こいつは――

本当は、こんなつもりじゃなかったんだよな。


やがて掴んでいた腕を振り下ろされ、その反動で体が地面へ倒れこむ。

視界が白く染まる。ぼやけた意識が戻ってくる。音が遠のく。

胸の奥で、なにかが跳ねていた。喜びか、安堵か、それとも恐怖か。

俺は笑っていた。笑って、泣いていた。


最後に見えたのは、青い月。

「いいなぁ、俺だってあんなふうに――綺麗に生きたかったのに」

澄んだ暗闇に、あいつの駆けていく足音が響いている。


――なあ、お前は、相変わらずお人好しだよ。

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