8話「背徳の宴」
初夏のグランツ砦は、草木が勢いよく芽吹き、辺境とは思えぬほど生命の息吹に満ちていた。
だが、その明るい季節のただ中に、不穏な知らせがもたらされた。
「王都から監査官が来るらしいぞ」
兵士たちがざわつく食堂の一隅で、その噂は静かに広がっていった。
「どうせ無能な奴らを切り捨てに来るんだろう」
「最近、補佐のノクティアさんが目立ってるし……“王都で無能と呼ばれた令嬢”が格好の標的かもな」
「でも最近、砦の調子はむしろ良くなってるだろ? あの人が来てから」
私――ノクティア・エルヴァーンは、パンを手に耳を澄ませていた。
王都の人間が辺境を訪れる理由など、決して良い知らせであるはずがない。
私は静かに息を吐き、胸の奥で覚悟を決めた。
* * *
監査官が砦に到着したのは、晴れ渡った昼下がりだった。
その姿は、いかにも王都育ちの貴族という出で立ちだった。
黒髪に上等な外套、鼻につくほど強い香料、冷たい視線を隠そうともしない鋭い目――
彼の名は、セドリック・ランベルク。
王都の監査局に勤める若き官僚であり、規則と格式を何よりも重んじる男だと紹介された。
「辺境は腐敗と怠慢の温床、我々が正さねば王国の威信が揺らぐ」
セドリックは開口一番そう言い放ち、砦の空気を一瞬で凍らせた。
カイラス司令官が無表情のまま出迎え、私は控えめにその後ろへ下がった。
「ふむ、君が“無能と呼ばれる魔道補佐”ノクティア・エルヴァーンか。王都ではずいぶんと噂になっていたよ。今日という日はさぞ、気が重かろう?」
皮肉な笑みを浮かべて、セドリックは私を値踏みするように見た。
「光栄です、監査官殿。辺境の実情は王都とは異なりますが、できる限りご説明致します」
「ほう、随分と殊勝だな。しかし、口先だけの反論は聞き飽きた。私は事実だけを見極める。君の“実力”もね」
* * *
セドリックはまず書庫へ足を運び、帳簿や物資記録を厳しく検査した。
「ここ、在庫数が微妙に合わない。きちんと確認しているのか?」
「定期的に点検していますが、物資の搬入・搬出時に多少の誤差が出ることもありまして……」
ユーリが冷や汗をかきながら答える。
セドリックは鼻で笑い、さらに調査を進めた。
次に向かったのは医務室だった。
「包帯の管理がずさんだな。こんなに余剰があっては無駄が多い」
「備蓄を増やしたのは、最近負傷者が続いたからです。現場の判断です」
リリィが小さな声で説明するが、セドリックは彼女の言葉を無視した。
「素人の言い訳は不要だ。君たちのような辺境の素人に任せていたら、国の資産が底をつく」
その後も、訓練場、魔導障壁制御室、食堂、ありとあらゆる場所を“粗探し”の目で調べ回った。
砦の兵士や使用人たちは、そのたびに緊張し、ぎこちなく頭を下げる。
* * *
夕方、セドリックは砦の中枢、作戦室で全員を集めた。
「この砦は規律が緩み、管理もずさんだ。特に――」
彼の視線が私に向けられる。
「魔道補佐ノクティア・エルヴァーン。君の存在は、この砦にとって“害悪”だ。
王都で無能と烙印を押され、辺境に送り込まれた“厄介者”。
君が来てから、砦内の不審な出来事も増えていると報告を受けている」
会議室に重苦しい空気が漂う。
「君はここで、いったい何をしている? 本当に“補佐”として役立っているのか?
正直に答えたまえ」
私は視線を上げて、静かに言った。
「私は与えられた職務を全うしているだけです。砦のために、できることを一つずつ――」
「きれいごとはもうたくさんだ。事実を証明してもらうため、今から全員の前で“魔導障壁の緊急修復”をやってみせろ」
その瞬間、周囲がざわついた。
「いきなり……あんな難しいことを!?」
「普通、複数人で半日かかる作業を、一人で……」
私は、逃げるように一歩引いた。
セドリックは薄く笑っている。
「どうした? できないのか。やはり王都の無能という噂は本当か」
私は、静かに息を吸った。
「……やります。ですが、正規の方法でなく、応急的な手法となります」
「いいだろう。どんな手を使っても構わない。
君が“使えない”と証明されれば、その場で解任願おう」
私は障壁制御室に入り、全員の視線を背に感じながら作業に取りかかった。
* * *
実際の障壁修復は、想像以上に複雑だ。
だが私には、“古代魔術”の知識がある。
私は手元を覆い隠すようにしながら、小声で古代語の呪文を紡ぐ。
「《循環再生》」
魔力の糸が障壁回路を流れ、細かな歪みやズレを修正していく。
魔核の青白い光が徐々に強さを取り戻す。
セドリックは、監査官らしからぬ強い焦燥を見せ始めていた。
「……そんなはずは……この作業は、王都の上級魔術師でも苦戦するのに……」
私は淡々と工程を進め、わずか十五分ほどで障壁の機能を完全に回復させた。
「修復、完了しました」
私は静かに報告した。
作戦室の誰もが、あ然とする。
「……バカな。何か“細工”をしたに違いない……!」
セドリックが顔を真っ赤にして叫んだ。
だがそのとき、ユーリが立ち上がった。
「ノクティアさんは、本当に毎日黙々と仕事をしてくれている。
今まで滞っていた書庫整理も、彼女が来てから格段に効率が上がったんです!」
リリィも小さな声で続ける。
「医務室の備品も、ノクティアさんが一緒に考えてくれて、怪我人が出てもすぐに対応できるようになったの……」
兵士たちの間からも、声があがる。
「物資の紛失も、ノクティアさんが調べてくれて、解決したんだ」
「訓練の時も、色々と助言をくれた」
「無能なんかじゃない。俺たちの仲間だ!」
セドリックは呆然と、砦の面々を見渡す。
「……そ、そんなはずは……! 辺境の者どもが、王都の規律を乱すとは……!」
彼は最後に私を睨みつけ、苦々しげに言い捨てた。
「……私の報告には“要経過観察”と記す。だが……ここまで庇われるとは思わなかったぞ。
君がこの砦に相応しいかどうか、いずれ王都の裁きが下るだろう」
それでも、セドリックはそのまま肩を落として砦を去った。
* * *
監査官が去った後の夕暮れ。
食堂では、兵士や使用人たちが普段以上に明るく笑い合っていた。
「やったな、ノクティアさん!」
「もう“無能”だなんて言わせねぇぞ」
私は、照れくさそうに笑って答えた。
ユーリが書庫の隅で、静かに言った。
「ノクティアさんが来てから、みんな本当に助かってるよ。……これからも、一緒にがんばろうね」
リリィも両手で私の手を握る。
「ノクティアさん、ありがとう。ここが、わたしの居場所なんだって、思えるようになったの」
その言葉に、胸が熱くなる。
(私も……ここでなら、本当に自分の居場所を作れるかもしれない)
砦に春の宵が訪れる中、私は静かに、未来への希望を抱いていた。