7話「不可視の敵」
初夏の気配がグランツ砦に満ちていた。
だが、澄んだ青空と裏腹に、砦には妙な緊張感が漂っている。
魔導障壁の修復から数日が経った。
砦の兵士たちは再び日々の訓練や警備に戻っていたが、その表情にはどこか曇りがあった。
「おい、また食料庫の干し肉が消えたらしいぞ」
「物資倉庫でも見回り中に奇妙な物音が聞こえたって」
「夜中に誰かの気配を感じた、って兵士もいるし……」
最近、砦のあちこちで不可解な出来事が相次いでいた。
物資が忽然と姿を消し、夜な夜な物音や影のようなものが目撃される。
門番は「動く気配を見た」と怯え、見回りの兵士たちも警戒を強めている。
砦内の空気はどこか張り詰め、ざわめきと不安が広がっていた。
私は食堂の片隅で、朝食のパンをゆっくりと噛みながら、その話題に耳を傾けていた。
(物資の消失――人の仕業とは考えにくい。魔獣や盗賊の類なら、もっと痕跡が残るはず……)
「ノクティアさん、なんだか最近怖いですね」
リリィが不安そうな顔で言う。
「ユーリさんも昨夜、書庫で物音がしたって……」
「うん。物陰で気配を感じたんだけど、姿は見えなかった。もしかして、砦の誰かがこっそり忍び込んだのかな」
私は静かに首を振る。
「人間なら必ず足跡や手掛かりが残る。でも今回の件は、痕跡があまりにも希薄すぎるわ」
砦の周囲を調査してみると、物資倉庫の裏手や兵舎の窓辺には、かすかに奇妙な“魔力の残滓”が感じられた。
それは、私が王都の古代魔術研究室でたびたび実験に用いた――
“気配を隠す”特殊な魔法陣の痕跡によく似ていた。
(この砦には、本来なら存在しないはずの術式……。もしかして――)
私は、夜になるのを待つことにした。
* * *
月明かりが砦の中庭を青白く照らす。
私はそっと砦の外壁沿いを歩き、物資倉庫の影に身を潜めた。
冷たい夜風が石壁をなでる。
見回りの兵士が一人、緊張した面持ちで倉庫前を歩いている。その足音が遠ざかると、砦は再び静寂に包まれた。
(ここで待つのは、何年ぶりだろう……。王都の研究室で実験体の魔獣を観察した時を思い出す)
私は呼吸を整え、古代語でそっと呪文を紡いだ。
「《視界拡張》」
瞬間、夜の闇が薄皮一枚はがれたように見え方が変わる。
肉眼では見えなかった魔力の流れが、かすかに淡い光の線となって現れる。
物資倉庫の壁際、ゆらりと“影”が動いた。
(やはり……人間ではない)
私はさらに集中し、魔力の残滓を辿る。
影は、ほとんど音もなく移動していた。
体長は子犬ほどだが、形は歪み、不定形の“黒い霧”のような存在だ。
それが倉庫の扉の隙間をすり抜け、何かを探るように動いていく。
私はそっと距離を詰め、手のひらに魔道具を隠し持った。
「――見つけた」
古代種、“幻影喰い(ファンタズム・イーター)”。
古代文献によれば、目視できず、人や動物の気配や物質を吸い取る魔獣。
本来は遥か南の密林地帯にしか生息しないはずだが、なぜかこの辺境に現れている。
(ここで騒ぎを起こしてはダメ。慎重に、確実に――)
私は魔道具をそっと床に置き、低い声で呪文を唱えた。
「《捕縛陣起動》」
足元に淡い銀色の光が広がる。
幻影喰いの動きが僅かに止まった。
だが、完全に捕縛できるほどの力はない。
影は不気味な音もなく跳ね、倉庫の裏へ逃げようとする。
私はさらに古代語で呪文を紡いだ。
「《光糸の檻》!」
淡い光の糸が影の周囲を包み込み、出口を塞ぐ。
影は暴れ、形を歪めるが、徐々に動きを鈍らせていく。
その時、背後から足音がした。
「ノクティア! 何をしている!」
振り返ると、ユーリとリリィが慌てて駆け寄ってくる。
「ノクティアさん、危ない!」
「下がっていて。今、この子を――」
私は集中を切らさないように呪文を繋ぎ、光の檻をさらに強化する。
「ユーリ、リリィ。あそこに“影”が見える?」
「ううん、僕には何も……でも、空気が変だ」
「私も、ノクティアさんの声しか……」
やはり、私にしか“幻影喰い”は見えていないようだ。
「リリィ、魔道具を手に持って。ユーリ、結界石をあの角に置いてくれる?」
「わかった!」
二人が指示通り動くと、光の檻の力が増幅され、幻影喰いの影がようやく完全に動きを止めた。
「今だ――!」
私は最後の呪文を唱える。
「《浄化》!」
光が一閃し、影の魔獣は悲鳴もなく霧散した。
闇に紛れていた魔力の残滓も、すうっと消えていく。
しばし、沈黙が落ちた。
「……終わった、の?」
リリィが不安げに尋ねる。
「ええ。もう大丈夫。みんなのおかげよ」
私はほっと息をつき、二人に感謝の笑みを向けた。
* * *
翌朝、砦では物資の消失も物音もぴたりと止まり、
久しぶりに穏やかな空気が戻ってきた。
「結局、原因は何だったんだ?」
「わからない。けど、ノクティアさんとその仲間たちが調査してたらしいぞ」
「やっぱり、あの人は普通じゃない……?」
兵士たちの噂話が広がる中、私はそっと食堂の隅で朝食をとっていた。
カイラス司令官が静かに私の元へやって来る。
「……例の件、解決したようだな」
「はい。外部から侵入していた“何か”を、取り除きました」
「お前の働きには驚かされる。正直、普通の魔道補佐ならここまでやれない」
カイラスはじっと私を見つめ、鋭い眼差しを向けた。
「ノクティア、お前はいったい何者なんだ?」
一瞬だけ、胸の奥がひやりと凍る。
だが私は静かに、微笑んで言った。
「私はただ、与えられた仕事を全力でこなしているだけです」
カイラスはしばし沈黙し、それ以上は何も聞かなかった。
* * *
昼休み。ユーリとリリィが書庫で待っていた。
「ノクティアさん、やっぱりすごいよ……あんな不思議な敵、僕たちだけじゃ何もできなかった」
「リリィも勇敢だったわ。二人がいてくれて本当に助かった」
三人でテーブルを囲み、静かに笑い合う。
私には、まだ「本当の自分」を語れる勇気はない。
けれど今は、この場所と仲間を守るために、“ノクティア・エルヴァーン”として歩み続けると誓った。
不可視の敵を乗り越え、砦には少しずつ平穏が戻り始めていた。