10話「少年兵の願い」
呪われた森の冒険から数日が経った。
グランツ砦は相変わらず辺境らしい静けさに包まれていたが、どこか空気が柔らかくなった気がする。
森で手に入れた希少薬草や魔道具は、医務室や書庫で大切に保管され、兵士たちの会話にも明るさが戻っていた。
そんなある日、私は朝の見回りの途中で食堂前の廊下に小さな人影を見つけた。
少年――年は十四、五歳ほどだろうか。
軍服はまだ新しく、袖や裾がわずかに長すぎる。彼は壁にもたれかかり、どこか所在なげに視線を落としていた。
「……おはよう。あなたが新しく配属されたフィン君?」
私が声をかけると、少年は小さく肩を震わせ、ちらりとこちらを見た。
大きな灰色の瞳に、警戒心が色濃く浮かんでいる。
「……あんた、魔道補佐のノクティアさん?」
「そう。あなたのことは、司令官から聞いているわ」
私は微笑み、距離を詰めすぎないよう、そっと横に並ぶ。
「何か困っていることがあるなら、遠慮なく相談してね」
「……別に。困ってねえし」
フィンは短く返し、壁伝いに歩いていく。
周囲の兵士たちがひそひそと噂する声が聞こえてきた。
「新しい少年兵、相当訳ありらしいぜ」
「親を戦で亡くして、身寄りもないとか」
「誰とも口をきかないし、すぐにどこかへ行っちまうんだ」
私は、彼の小さな背中にしばらく視線を送った。
* * *
その日の午後、砦の訓練場がざわめきに包まれていた。
「こらフィン、何やってる! 勝手に魔道具庫を漁るな!」
「触るなって言っただろ!」
怒号が飛び交い、兵士たちが駆け寄る。
その中心に、怯えたようなフィンが立っていた。彼の手には、小さな魔道具――護符のようなものが握られている。
「返せよ、それは隊長専用の……!」
フィンは無言のまま、ぎゅっと護符を握りしめる。
そのまま走り去ろうとしたが、足がもつれて転んでしまった。
「大丈夫?」
私は素早く駆け寄り、地面に落ちた護符を拾い上げる。
フィンは立ち上がると、私から護符を奪い取ろうとした。
「待って。これが欲しかったの?」
「……関係ねえだろ」
彼は目を伏せ、唇をきつく結んだ。
「でも、誰にも頼るなって言われてるから……。自分で、何とかしなきゃいけないって……」
その言葉に、私は胸が痛んだ。
フィンの手から護符をそっと受け取り、私は静かに言った。
「“頼ってはいけない”と、誰かに言われたの?」
「……ずっと前に、そう教わった。迷惑をかけたくないから……。でも……」
彼の声はかすれていた。
「……本当は、怖いんだ。みんなが死んじゃうのも、置いてかれるのも……」
彼の小さな拳が震えている。
私は、そっと彼の肩に手を置いた。
「誰だって、一人は怖いよ。私もそうだった」
不意に、フィンが驚いたように私を見る。
「え……?」
「私も、王都で“無能”って言われて、誰にも頼れなかった。でも、ここで仲間ができて、やっと少しだけ自分を信じられるようになったの」
しばらく沈黙が流れる。
フィンは下を向いたままだったが、やがて小さな声で呟いた。
「……もし、誰かを守れる力があったら……俺、もう一度、家族を作れるかな」
「作れるよ。仲間も家族も、心から信じた時にできるものだから」
私は静かに微笑んだ。
* * *
それから、フィンは砦の片隅でよく私を見かけるようになった。
朝の訓練後、私は彼と二人きりで魔法の基本や、砦での仕事を一つずつ丁寧に教えた。
「魔力の流し方は、力を込めるだけじゃなくて、気持ちを落ち着かせてから」
「……こう?」
「うん、すごく上手。焦らなくていいのよ」
リリィも時折訓練に加わり、明るい声でフィンを励ました。
「失敗しても大丈夫だよ。私なんて、最初は呪文を逆に唱えたりしてばかりだったから!」
ユーリは魔道具の使い方を教え、砦の裏庭で一緒に実験をした。
はじめはぎこちなかったフィンの表情も、次第に柔らかくなっていった。
* * *
ある日の夕暮れ、訓練場で小さな事件が起こった。
兵士たちが素振りの練習をしていると、突然フィンがミスをして木剣を手から落としてしまう。
「フィン、しっかりしろ!」
厳しい声が飛ぶ。フィンは顔を真っ赤にし、拳を握りしめて立ち尽くす。
私はそっと近づき、彼の肩を支えた。
「大丈夫。最初は誰だって失敗する。ゆっくりでいいの」
それでも、フィンはうつむいたままだった。
「どうしても……うまくできない。迷惑ばかりかけて……。やっぱり俺、ここにいてもいいのかわからなくなる」
私は、少しだけ声を低くして語りかけた。
「フィン。人は誰でも、間違えたり、迷ったりするものよ。大切なのは、失敗した時に何を思い、どう動くか。
私は、あなたが諦めない姿を見て、すごいと思ってる」
フィンの頬がかすかに震え、やがて彼は小さくうなずいた。
「……ありがとう、ノクティアさん。俺、もう一度がんばってみる」
* * *
それから数日間、フィンは懸命に訓練や仕事に取り組んだ。
兵士たちも次第に彼を認め始め、食堂で声をかける者が増えた。
「フィン、こっち座れよ!」
「明日は一緒に見回りに行こうぜ」
リリィやユーリも、時折フィンを助け、笑顔を向けた。
そしてある夜、私は砦の屋上で、フィンと二人きりで星空を見上げた。
「ノクティアさん……」
「なあに?」
「……俺、ここで“家族”を作りたい。ここにいるみんなと、一緒に生きていきたいんだ」
私は静かに、彼の言葉を胸に刻んだ。
「きっとできるよ、フィン。あなたなら、大丈夫」
夜風が優しく吹き抜ける。
私は思う。
この砦で、多くの仲間たちと出会い、誰かのために心を寄せ、支え合うことで――
自分自身もまた、人として少しずつ強くなれているのだと。
フィンはやがて、自分の居場所を見つけ、仲間として成長していった。
そして私もまた、この砦で歩む道が“孤独”ではないと、あらためて実感していた。