風の歌が告げるの革命
『風の歌を聴け』
たった一文で、文章と絶望という無縁の概念が見事に融合していた。
簡潔でありながら深い余韻を残す言葉の魔術。斎藤玲奈は思わず次の文へ視線を滑らせた。
封筒から出てきたのは学生用の安価な裏紙。乱雑な字跡と相まって、初歩的な印象を与える。だがその内容は予想を裏切っていた。
「第01節」とだけ記された原稿は、従来の新人作品とは明らかに異質だった。書き手が創作の苦悩を赤裸々に綴る形式――「文章を書くことは自己治療ではなく、せいぜいが自己修養の試みに過ぎない」という冒頭の言葉が、文学に憧れる者の胸を締め付ける。
「率直に語ることの難しさ。まさに私が抱えていた葛藤では...」玲奈は唇を噛みながら頁をめくる。ハートフィールドという米国人作家からの影響を記した箇所で目が輝いた。「『物事との距離を測るのに感性ではなく物差しが必要』――これこそ文学の本質だわ!」
しかし疑問が湧く。東大時代に貪り読んだ海外文学の中で、こんな作家の名は記憶にない。奇妙な自殺方法(ヒトラー肖像画を抱えた高層ビル転落)の描写に現実感を覚えつつ、原稿の世界に引き込まれていく。
物語は「鼠」という青年との酒場での会話から始まる。「金持ちはクズばかり」という陳腐な愚痴が、どこかシュールな比喩で彩られる。「25メートルプールを埋めるビール」「ジャズバーの床を5cm覆う革」――従来の純文学が忌避してきた軽妙な文体が、逆に新鮮に映った。
社内の照明が次々と消えていくのに気付いた時、玲奈は我に返った。橋本警備員が侘しげに湯飲みを抱えている。「本当に申し訳ありません!つい...」
「いえいえ、北川さんが斎藤先生に見てもらえるなんて」橋本の笑顔に後ろめたさを覚えつつ、玲奈は原稿を鞄にしまった。電車内でも読みたい衝動を抑え、団地の自宅で妹たちの「お帰り!」を聞くや、裸足でリビングへ駆け込む。
冷めた味噌汁がテーブルに残る中、彼女は再び『風の歌を聴け』を広げた。窓の外で風が騒ぐ音が、まるで文学界に渦巻く革新の予感を告げているようだった。