存在しない完璧な文章
午後五時十五分、講談社本社ビルの警備室。
「橋本さん、今晩は。今日の私宛の郵便は?」
赤いウェーブヘアの少女が近づいてきた。学生のような無邪気な顔立ちに似合わぬ、ノーカラーの大胆なニットワンピースが時代を先取りしている。その傍らには腹のたるんだ小柄な男が手を背にし、偉そうに仁王立ちしていた。男は橋本雄大にさりげなく頷いただけであった。
「安原副編集長、田中様、今晩は。ただいま確認いたします」
橋本が身を翻そうとした瞬間、田中碧と名乗る少女が先んじて警備室に駆け込み、山積みの郵便物をかき分け始めた。非正規雇用の実習生ながら、全く慎みを知らぬ態度に、彼の眉間に怒りの皺が刻まれた。
「ああっ、やっぱりない!安原先生みたいに作家さんから感謝状が届くなんて、私にはまだ早いのかなあ」
碧が窓枠に肘をつき、安原副編集長へ投げかける甘えた声。前かがみの姿勢でニットの襟元がゆるみ、若い肌のきらめきがのぞいた。
「焦るものじゃない。正社員になれば自然と付いてくるものだ」
安原が「正社員」という言葉を濁した瞬間、橋本の背筋が氷のように硬直した。編集部の人事権を掌握する男の発言は絶対である。この実習生は最早「群像」の正規編集者候補なのだ。
「わあっ!安原先生宛に三通も!武田百合子先生からのお手紙まで!」
碧が興奮して掲げた封筒の束から一枚が滑り落ちた。差出人欄に記された「北川秀」の文字に、彼女の血色がみるみる引いていく。
碧が三通の封筒を掲げ、瞳を輝かせながら安原を見上げた。その動作で束から一枚の原稿がこぼれ落ち、床に叩きつけるような音を立てた。
「...この住所はまさか」
指先で差出人欄を撫でるように確認すると、血色が頬から引いていく。北川秀――三年前に別れた元カレの名前が、会社の備品管理用の青いインクで記されていた。
掌に収まった原稿用紙が重たく感じる。記憶の中の彼は、高校時代の現代文で赤点を取るような男だった。ましてや小説を書くなど、青天の霹靂というべき事態だ。
「新人賞の応募先を間違えたのかしら?それとも...」
窓ガラスに映る自分の姿が、ふいに三年前の冬の記憶を呼び覚ます。雪の降る駅前で膝をつき、借金の返済を懇願する北川の姿。あの時の土下座の角度まで鮮明に蘇ってくる67。
「同棲代の学費まで貸し付けたのは自己責任でしょうに」
原稿用紙の職業欄に「警備員」とあるのを見て、唇が自然と歪んだ。バブル崩壊で家が傾いたと聞いていたが、まさか本当に警備員に転落していたとは。
「死に損ないのクズが...」
封筒を事務机に叩きつけると、安原宛の三通を胸に抱え直した。笑顔のスイッチを入れるのに要する時間は0.3秒。警備室を出る背中に、橋本の低い「ご苦労様です」がまとわりついてきた。
警備室のドアをノックする高級腕時計の音が冷たく響く。「田中さん、いつまで待たせるつもりかね?」
「もう、今行きますって!」碧が弾けるような笑顔で駆け寄り、安原の上腕を軽く叩く。「先生ったら性急なんだから。早くA5ランクの赤身食べたいんですよ~」
安原が銀色のブレゲを袖口に隠しながら頷くと、橋本雄大の背骨が九十度の最敬礼で軋んだ。ビルを出た瞬間、碧の視線が狐のように周囲を旋回。同僚の姿がないことを確認するや、すっと安原の腕にふわりと寄り添った。
「斎藤先輩から乙武先生を引き抜けたのも先生の威光あってこそ!これで新人賞の担当編集者に……あ、もちろん正社員登用の件もよろしくお願いしますね」
二の腕に伝わる柔らかな圧迫感に、安原の顎の緊張が解けていく。「三流私大の学生が『群像』の正社員になるなんて、リクナビ調査で東大文系の内定率だって23%の時代に」ため息交じりの笑みが零れる。「村松編集長のゴルフ接待代、君の給料の三ヶ月分は軽く超えてるぞ」
「先生ったら~」碧が頬を薄紅に染める仕草を見せた頃には、北川秀の原稿は記憶の隅に追いやられていた。エントランスの大理石床に、突然新しい影が落ちる。
「だって文学って心の鏡ですもの。警備員さんだって素晴らしい小説が書けると思うわ」
ツインテールの茶髪が腰まで波打つOLが、書類束を抱えながら橋本に微笑む。途端に表情を崩し、両手で口元を覆う。「あの、職業差別みたいな言い方だったが、本当に申し訳ありません!」
橋本が苦笑いで手を振る。「とんでもないです斎藤先生。むしろそのお言葉、北川さんに伝えたいくらいです。私の下手な励ましよりずっと……」
エレベーターの光に浮かぶOLは、過ぎた茶髪を腰臀部で揺らすツインテールスタイル。アーモンド形の茶色の瞳が、碧の顔面偏差値を軽く凌駕する知性的な佇まいを醸し出していた。
橋本雄大にとって、『群像』編集部に入社して1年目の斎藤玲奈は異質な存在だった。整った顔立ちに情理をわきまえた物腰、新人編集者の貧弱な語彙では収まりきらない魅力を放っている。
「そういえばどうして北川さんの原稿の話に…?」
首をかしげながら記憶を辿るも、まあいい。雑談の流れで、何と斎藤先輩が即座に添削を申し出たのだ。無名作家なら狂喜乱舞するほどの特典を、彼女は紅茶の湯気が立つカップ越しに軽やかに約束した。
「では開封しますね」
斎藤が厳かに封を切ると現れたのは手書き原稿。インクの滲みが目立つ字面に、彼女の眉が微かに震えた。「字の巧拙で生徒を評価する日本の教育風土なら、1980年代の暴走族予備軍と誤解されかねないわ」。電子化が常識の現代でわざわざ手書きする不器用さに、彼女は原稿用紙の端を無意識に撫でていた。
「『風の歌を聴け』…タイトルに文学的な香り」
諦めかけつつ頁を繰ると、冒頭文が視界を灼いた。
完璧な文章などといったものは存在しない,完璧な絶望が存在しないようにね。




