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警備員でも小説が書けるのか?

目覚めた北川秀は、バブル崩壊直後の東京にタイムスリップしていた。


この時代の日本は経済は低迷し、人々は路頭に迷う中、唯一の心の支えであるべき文学までもが断絶されたかのようだった。夏目漱石も川端康成も、村上春樹すら存在しない――代わりに文壇を牛耳るのは、北川が聞いたこともない凡庸な作家たちばかり。


ペンを握った彼は、生計を立てるため、そしてこの混沌とした時代に新たな人生を切り開くため、掌編小説『風の歌を聴け』を書き始めた。


こうして人々は気付いた。バブルという狂気の時代に相応しい、真の文豪が遂に現れたのだと。

その日夕暮れ時、同じ警備員制服を着た北川秀がふらりと講談社本社ビル☆の正門に現れ、中を見学したいと申し出たが、橋本雄大にきっぱりと断られた。

気まずい空気が流れたが、北川は年齢不相応の老練さで、門前払いを食らっても動じることなく、タバコを勧めながら雑談を始め、いつの間にか緊張を解きほぐしていた。

その後一週間、北川は毎日のように顔を出すようになり、あっという間に講談社の警備チームと打ち解けていった。ある日雑談していると、橋本はこの物腰柔らかで教養深そうな青年が、なんと隣接するレコード会社の警備員だと知る。一流企業で同じ警備業務に就き、価値観も近いことから、自然と親近感が湧いた。

こうして年齢差を超えた親友関係が生まれる。二人は挨拶を交わすと、本社ビルの入口で雑談に興じた──退社時間の1時間前になると、オフィス街☆のサラリーマンたちが急に仕事熱心になるため、人の出入りがほぼ途絶える時刻だ。

この1時間が警備員たちの貴重な息抜きタイム。その後は引く手あまたの多忙が待っている。北川と話す時、橋本はつい「文芸の殿堂を守る者」としての矜持を見せたがった。他の企業の警備員とは違う、編集者たちに通じる教養を感じさせたいのだ。

よく文学談義に花を咲かせたり、編集部の内輪ネタ☆を披露しては、北川の整った顔が驚きの表情を浮かべるのを楽しんだ。今日も彼は群像編集部の近況を話し始めた。

「『群像』編集部、最近てんてこ舞いらしいよ。今年の群像新人賞の準備が始まったって。五大公募新人文学賞のひとつだし、北川さんも知ってるでしょ?」

橋本が視線を送った先には、夕焼けに染まる講談社の高層ビルがそびえ立っていた。この腐りきった世の中で、唯一人々の心に灯り続けるものがあるとすれば──文学という名の宝石箱。そして講談社『群像』は、その中でもひときわ輝く真珠だった。

「もちろん。学生時代は落ちこぼれでしたけど、有名な文学賞くらい」北川は少年のような笑顔を浮かべた。トップスター級の端正な顔立ち☆に178cmの長身、学園にいれば女子生徒の心を鷲掴み☆にする存在だろう。

その笑顔に、橋本はふと人気若手俳優と話しているような錯覚を覚えた。



「新人文学賞を一度受賞するだけで、彼の一年半分の給料に相当する。羨ましくないわけがないだろう?」

「すごい額ですね」北川秀は大袈裟な驚き顔を作りながら、内心ではほっとしていた。

この半月間、1995年の東京には記憶との齟齬が多すぎた。もし自分の知識が通用しなかったら...という不安が常に付きまとっていた。幸い群像新人賞の賞金倍増事実は変わっていない。これが彼のデビュー作投稿先を選んだ決め手だった。銀行融資の返済に追われる身には、即効性のある資金調達が最優先事項だ。

さらにこの半月、資料調査と警備員仲間との雑談を通じて、北川は衝撃的事実を確認していた。この世界の日本文学は明らかに歪んでいた。夏目漱石も川端康成も村上春樹も存在せず、文学界を牛耳るのは聞いたこともない三流作家ばかり。図書館で借りた彼らの作品を読んで、北川は呆然とした。

「冗談じゃない...」窓ガラスに映る自分の姿を見つめながら、彼は拳を握りしめた。数千万円の印税を稼ぎ、美少女読者に囲まれる資格があるのは、こんな駄作を書く連中じゃない。いや、そもそも文学の神聖さがこれほど汚されている現状が許せない。

「この日本に必要なのは、真に人々の心を癒やす作品だ」

北川は意識的に妄想を断ち切った。今は現実的な目標が最優先だ。時計台が17時を告げる音と共に、彼は懐から分厚い封筒を取り出した。『風の歌を聴け』の原稿が入っている。

「私も少し書いてみたんです」

橋本雄大がタバコを構える手が止まった。警備室の置時計は退勤時刻5分前を指していた。「もし少しでも執筆能力があれば...あの200万円に挑戦したいものだ」と呟いた直後での出来事だった。

北川は真剣な眼差しで封筒を差し出した。「今日こそ適切な日だと思いまして」。窓の外で夕闇が迫る中、封筒の表書きがかすかに光っている。

「そうさ、新潮社☆の新人賞と並ぶ五大賞の一つだがな、今年こそ『群像』が頂点に立つかもしれん!」橋本雄大は身振り手振りを交えながら熱弁を振るった。

「一番」──この言葉に込められた意味は明らかだった。五大文学新人賞の並立構造を崩し、『群像』が他を圧倒する構図を作り出すというのだ。

普通の警備員がこんなことを言えば、北川はたわ言と一笑に付すところだが、橋本は違った。講談社警備隊8人のうち、定間近のこの男が最も堅実で、文学談義で少し気取るところはあれ、虚飾のない性格だ。これまで漏らした編集部の内情は、ことごとく北川の検証をクリアしていた。

「どうしてそんなことが?」北川は新人作家のような純粋な眼差しを向ける。「五大賞の均衡は長年続いていますよね」

その反応に満足した橋本は魔法瓶を抱えながら笑った。「北川さん、『群像新人賞』の年間応募数を知ってるか?」

「500くらい?」わざと低い数字を口にした。実際は5000前後だと、東京大学文学部の院生☆時代に叩き込まれた知識で知っている。

「もっと大胆に」橋本が促す。

「推理は苦手でして」北川は肩をすくめた。

「近年の有効応募数は約5000だ。その驚いた顔!五大賞の一角をなすのだ、当然の数字だろう?」

橋本は彼の肩を叩きながら冗談を飛ばした。

「女心も読めないんじゃ、モテないぞ」

「だからいつも振られるんですね」北川は流れに乗って自虐ネタを披露した。

「ハハハ!ルックスより口の達者さだ、覚えておけよ」

完璧なルックス☆の北川も恋愛で苦戦していると知り、橋本は妙に清々しい気分になった。

再び文学賞の話題に戻ると、橋本は突然顔を近づけて囁いた。

「今年はその数が倍増、いやそれ以上になるかも。昨日村松編集長と安原副編集長が話してたんだ。賞金倍額で有望新人を呼び込むとか」

橋本の頭裡では、賞金2倍=応募者2倍=良作出現率2倍という単純計算が成り立っている。従来から五大賞を席巻していた『群像』が良作を倍増させれば、当然トップに躍り出る。彼の中では完璧な論理だった。

「賞金ってそんなに大きいんですか?」北川は興味深そうに首を傾げた。元の世界での『群像新人賞』の賞金は100万円前後。

バブル崩壊後の日本では物価も賃金も下落傾向にあった。一般サラリーマンの月収は25万円程度。北川が勤めるキングレコード☆の警備員(非正規雇用の派遣社員☆)の給与は月6万円──為替換算では膨大な金額だが、日本の物価水準では生存ギリギリの数字だ。

100万円あれば、この世界での困窮は一気に解消できる。

「文豪さんたちには些細な額でも、新人作家や我々庶民には天文学的数字さ」橋本が二本指を立てた目を輝かせて続ける。「改定後は200万円だ!」

北川は橋本が賞金獲得者を羨む気持ちを読み取った。日本の年功序列制度☆では、警備員のような派遣労働者でも勤続年数に応じて賃金が上昇する。58歳の橋本の月収は推定10万円、賞与込みで年収125万円程度だろう。

新人文学賞を一度受賞するだけで、彼の年収一年分以上が手に入るのだ。羨ましくないわけがない。

「すごい額ですね」北川は大袈裟な驚き顔を作りながら、内心ほっとしていた。この世界に来て半月、記憶の中の1995年東京と微妙に異なる点が多く、「知識が通用しなかったら」という不安が募っていた。

幸い『群像新人賞』の賞金倍増事実は変わっていない。これが彼のデビュー作選択理由の一つだ。現在の状況では、早急な資金調達が最優先だった。

この半月、資料調査と警備員たちとの雑談を通じて、ある事実を確認していた──この世界の日本文学は明らかに歪んでいた。知っている大家の作品は存在せず、絶望に満ちた社会で文学界を牛耳るのは、彼が知らない三流作家ばかりだった。

夏目漱石も川端康成も、この時代の村上春樹もいない。文学界は無名の凡庸な作家たちに支配され、彼らの作品を読んでみれば──一言で言えば三流以下の駄作☆だった。

「冗談じゃない」北川は歯噛みした。数千万円の印税収入や美少女読者の歓声は、こんな無能な連中に与えられるべきではない。真珠のように輝くべき純文学が、泥沼にまみれている現状に憤りを覚えた。

この日本に、人々の心を癒す真の文学を。文豪の名に相応しい男が必要だ──そう決意した瞬間、現実が北川を引き戻した。今は銀行融資の圧力を緩める資金が必要なのだ。

「もし少しでも文章が書けたら、応募するんだけどなぁ」橋本が最後の煙草に火をつけた。警備室の柱時計は午後5時まで残り5分。現実に戻る時間だ。

「実は私、つい書いてみたものが」北川は懐から封筒を取り出した。『風の歌を聴け』の原稿が入っている。締切間際の投稿には理由があった。

今日かな?

「いやいや、警備員だって夢見ることはあるさ...って待てよ北川さん、今何と言った?」

橋本雄大が煙の輪を吹き出し、むせ返りながら北川の手元の封筒を見た。まるで時代劇の印籠☆を差し出すような厳粛さで、彼は文芸誌の応募用封筒を掲げていた。

「実は原稿を書いてまして。ずっと迷っていたんですが、橋本さんの話を聞いて決心しました」北川秀の表情は警備室の防犯カメラ☆のように硬い。「拙文ですが『群像新人賞』の応募箱へ入れていただけませんか」

橋本の頭が混乱した。この二週間、タバコをふかしながら雑談していた同業者が、突然文学の門を叩くと言い出す。銀座のクラブホストがNASAの面接を受けると言われたような違和感☆だ。

警備員が小説を書く?それも難関の群像新人賞に?まるで自分が編集部に押し入って「東大を受験します」と宣言するような非常識さ。否、それ以上かもしれない。

だが200万円と言った時の北川の瞳の輝きを思い出すと、妙に納得もした。年収100万円台の身では、誰もが巨額に心奪われる。冗談の一つも言おうと思っていたが、青年の真剣な面構えに言葉を飲み込んだ。

「了解した!終業後に応募箱へ入れておくよ」橋本は先輩風を吹かせて背中を叩いた。「北川さんなら見た目も作家風だし、ひょっとしたら...ね?」

「借り吉です」北川が笑うと、ちょうど柱時計☆が17時を告げた。オフィスビルのガラス扉が一斉に開き始める音が響く。

封筒を預かった橋本は窓辺の未整理郵便☆の山に暫定保管した。受付デスクの影で、ふと苦笑が漏れた。20代の熱意か──かつて自分も持っていたものを思い出させる青春の香りだ。

封筒を置きに行く時間がない。

そう考えながら、彼はやむなく北川秀の封筒を窓際の机の上に置き、社員たちへの手紙と一緒に置いた。そして身を翻して直立し、お決まりの笑顔を浮かべながら、出てくる社員たちを続けて一人一人点検していった。


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