第1話 地下ピットの怪
ゆっくりと駐車場を出ると、そのままライフステージ赤羽北へ向かった。空いていれば、10分もかからない距離だった。20時も過ぎれば、駅前以外の道路は車も少なくなる。ものの数分で物件へ到着したが、河村は通り過ぎて200メートル先のコインパーキングへ停車した。うっかり物件の前に停車して駐禁切符を切られたとして、会社が罰金を肩代わりしてくれることはないのだ。また、マンションなどの来客用駐車場も原則使用禁止である。そのため、パトロール員は物件最寄りのコインパーキングへ停車し、急がなければならないのである。
近くにパーキングがあればいいが、駐車場がいっぱいなどで離れた場所に停めると、25分ルールの為に装備品をもって全力ダッシュしなければならないのだ。
河村はライフステージ赤羽北の鍵を、荷台に設置してあるキーボックスから取り出すと、装備しているキーケースにしっかりと結着した。そして、防弾チョッキを着込むと、最後にヘルメットをかぶって車の鍵を閉めた。
機械警備のパトロール員は、企業や店舗などの侵入警報にも対応する。当然、そこには賊がいる可能性もあるのだ。制服の上には防弾と防刃のプレートを装着したチョッキを羽織り、防刃のグローブ、防護用のヘルメットを身につける。そのほかにも、大型のライト、安全靴、護身用の警棒、それに端末と必要書類の入った肩掛けカバン。これらの装備を持って移動するが、装備品だけでも軽く10キロ以上の重さがある。駐車場が遠ければその分走る時間は増えるため、結構な重労働だ。事実、入社して3年で、河村の体重は15キロ以上も減り、その代わりに筋肉と体力が付いた。
ライフステージ赤羽北へ走ると、エントランスで暗証番号を入力して敷地内に入った。目指すは管理人室だ。そこに行かなければ何が起きているのか把握できないのだ。
警報には『個別警報』と『一括警報』というのがある。個別警報は、それぞれの異常を知らせる警報の数だけ回線があり、発報した時点で契約物件のどんな異常かがわかる。しかし、回線が多ければ多いほど、契約料は高くなるため、よっぽど金持ちが住むようなマンションでもない限りは一括警報での契約となる。一括警報は、数ある警報の中でも何かが発報すれば、警報として信号が来る仕組みになっている。そのため、火災警報だろうが、エレベーター故障だろうが、現地に行って防災盤を見なければ、何が起きているのかわからないのがパトロール員泣かせになるが、契約料は安い。
管理人室の鍵を開け、警戒状態を解除すると、河村は室内の防災盤の表示を確認した。そこには『生活排水層満水』の表示が点灯されていた。河村は一回息を吐くと、管理人室の鍵ボックスから、排水層のあるポンプ室の鍵を取り出して結着した。
排水層は地下にある。駐車場脇のポンプ室の鍵を開けると、計器類に囲まれたマンホールのふたを持ち上げ、作業中を知らせる看板を設置する。こうでもしておかないとうっかり落下する人がいるからだ。過去には子供が落ちて大けがをしたことがあったと聞いている。
ヘッドライトを付けて梯子を下りていくと、モーターの音がしているがゴボゴボとおかしな音を出している。ポンプが設置してある地下ピットには電気がない。少し古い物件に多いのだがここもそうだった。梯子に身体を固定して、振り返って周囲を見渡した。暗がりに映し出される地下ピットは何とも不気味だ。下を見ると、普段は床になっているはずの場所が茶色く水浸しになっている。排水ポンプが処理しきれずに水があふれているのだ。そのために警報が鳴ったのだろう。
河村はつま先を伸ばして深さを測った。幸い、水の量は数センチ程度のようだ。安全靴は靴底も厚いため、そのまま足を下した。パチャパチャ暗がりの中を歩いていくと、排水ポンプが半分ほど水に沈みながら動いているのを確認することができた。この先は一段深くなっているので気を付けなければならない。どうやら、本来なら排水されるはずの排水溝が詰まってしまっているようだ。
何が詰まっているのかわからないため、むやみに手を突っ込んで怪我をするわけにはいかない。そもそも、この汚い水の中に手を突っ込む気にもなれなかった。
「一回上がって、棒か何か持ってくるか。」
独り言を呟くと、はしごを上ってポンプ室へ戻った。確か、この部屋に排水溝のごみを取り除くためのひっかき棒があったはずだ。河村はポンプ室の端っこに無造作に置かれているそれをつかむと、再び地下ピットに降りた。
もう一度排水溝まで行き、ひっかき棒でクルクルとかき混ぜる。何かがひかかっているようだったが、かまわずにかき混ぜた。そして、抵抗が強くなったところで引っ張ってみた。細い糸が切れるようなプチプチ、ブチブチという音が聞こえたかと思うと、急にヘッドライトが消えた。と、同時に排水が開始されたのか、足元でゴボゴボと音が聞こえた。
ヘッドライトが消えたため、当然地下ピット内は真っ暗になった。突然訪れた漆黒の空間に、河村は一瞬焦ったが、落ち着いて腰に装着したライトを取り出して明かりを付けた。しかし、十分に電池があったであろうはずが、ライトは全く光を発することがなかった。
「ツイてないな。」
河村はため息をつくと、手を伸ばして壁の位置を確認した。幸いこの地下ピットは四方が数メートルしかないため、壁を伝っていけばはしごまで戻ることができる。闇の中を壁の感触だけを頼りにゆっくりと歩いた。すると、すぐに天井に薄明かりを確認することができた。出口に近付いたのだ。
河村はいち早くここから出たいと感じていた。出口が見えて安堵するかと思ったが、それよりも先ほどから、何度となく冷たい風の筋が、首元を撫でているような気がしたからだ。霊感などはないと思っているし、霊的なものを信じているタチでもない。きっと、排水溝に水が流れたことでピット内の空気が動き、それが身体を撫でているのだと自分に言い聞かせたが、どうやら暗闇というのは、本能的に恐怖を感じるものらしい。
落下して怪我をしないように、なんとなく慌ただしく梯子を上りポンプ室の中へ戻った。マンホールを元に戻すと、川村は大きく息を吐いた。しかし、安堵したのもつかの間、持ち帰ったひっかき棒を見てぞっとした。そこに絡まっていたのは、無数の髪の毛だったのだ。
「うぇっ!」
思わず棒を投げ出してしまった。見間違えて紐か何かなのではないかと考えたかったが、黒い繊維のそれらは、どうしても髪の毛にしか見えなかった。河村の背中が、なんとも形容しがたいゾワゾワとした感覚で占領されていった。顔面から血の気が引くと言うのだろうか、皮膚の表面がピリピリと電気が流れていくようで、落ち着こうと大きく呼吸を繰り返した。
駐車場脇の水道で、ひっかき棒を洗おうとしたが、絡みついて取ることができない。嫌だいやだと思っても、仕事なので割り切り、ゴム手袋をしてからまった繊維を取り外した。どう見ても髪の毛なのだが、河村はそれが何か紐のようなものがばらけて、時間の経過と共に黒ずんだものだと思い込むようにした。
十分ほどできれいに取り外すと、ビニル手袋ごとゴミ袋に入れて、指定されているゴミ置き場に置いた。その時、端末の呼び出し音が再び鳴動した。確認すると、同じ地区の工場で人感センサーが反応したらしい。人感センサーはその名の通り、動く者がいない深夜などに、センサーを遮る動きがあると発報する仕組みになっている。
河村は防災盤が復旧しているのを確認した。カバンから報告書を取り出すと、手早く記入して管理人室に置いた。ポンプ室の鍵を元に戻し、施錠して外に出る。その時、ふと自分のヘッドライトが点灯していることに気が付いた。
「あ、あれ?」
ヘッドライトは煌々と光を放っている。不思議に思って、腰元のライトを取り出すと、これもまた普通に点灯した。電池が少なくなっているような光度ではなかったので首をかしげていると、
「ふふふ・・・。」
背後で女の笑い声が聞こえたような気がして振り返った。しかし、後ろには誰もおらず、ただ、自動ドアの先にある管理人室の受付窓に、女性の影のようなものが見えた。そこはついたった今自分がいたところで、3畳ほどしかない管理人室には誰かが隠れるようなスペースはない。
何とも言えない気味の悪さに、にわかに河村は走り出して物件を後にした。全力で走って車に戻ると、先ほど取り出した鍵を元に戻し、出動指示の出ている次の物件へ車を出すのだった。
河村は知らぬことであるが、4年前の暮れ、ここの管理人室で働いていた中年の女管理人が、帰り際に心臓発作を起こして死んでいたのだ。年末であることもあり、遺体が発見されたのは年明けだった。家族から捜索願がだされ、年明けに出勤した管理会社の人間が様子を見に来たところ、すでに息を引き取った女管理人を発見したのだと言う。それ以来、誰もいないはずの管理人室の電気が付いたり、管理人室の窓に女性の影が浮かんだりする現象が目撃されている。。。