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【レポート】ネガティヴは幾つかの分岐点を間違えると変態になる

作者: 豆々駄

 ネガティヴとは。否定的、消極的、悲観的なさま。

 人によって傾向や程度は大きく変わる。

 ここに記すのは『私が今呼吸をしたことで隣の人と酸素ないし二酸化炭素を交換をしてしまった。不快に思っていないだろうか。申し訳ない』と自意識過剰自虐をするタイプのネガティヴである。


まずネガティヴな人は否定から入る。

例えば、人に「遊びに行こう」と誘われたとする。

受け取り方は2つで、


「実は私なんかと遊びに行きたくないけど、きっと彼女は善の立場になるために善人らしい立ち振る舞いをしなきゃいけないんだな。ここで断ってしまったら“こんな底辺の人間に振られた人”という汚名を着せてしまうから、せめて彼女を“こんな底辺の人間とも親しく接する女神”として立てるよう尽くそう」


か、


「実は私なんかと遊びに行きたくないし、行くつもりもなくて、私が断ることを前提に建前上誘ってくれたんだな。分かってます。シフト入れておきます」


の2通りだ。


「本当に私と遊びたくて誘ってくれている」という可能性は頭に浮かんだとしてもすぐに捨て去る。たとえ長年付き合ってきた友人であっても疑う姿勢を忘れない。

 かといって友人が嫌いなわけではない。むしろ自分だけしか友人がいないよう洗脳して束縛したいくらいだ。

 けれど好意を寄せれば寄せるほど裏切られることが怖くなる。だから、距離感を見誤ってはいけないと自分に言い聞かせるのだ。


 過去に大きく期待を裏切られたことがあるのか、と問われれば答えは否。

 では、何故そんな恐怖を抱いているのかといえば、保守的に生きなければいけない生育環境にあったのだろうと推測できる。


 要因の1つとして、ここでは『褒めない教育』を挙げる。


 保育の場には、褒める保育と褒めない保育がある。

 褒める保育では「すごい!」「えらい!」「格好いい!」と小さなことでも褒めることを欠かさない。というのも、出来たことを褒められると嬉しいし、やる気につながるという考え方があるからである。折り鶴を綺麗に折れずとも、ちゃくちゃくと工程を覚えていく、その過程を褒める。


 しかし褒めない保育の視点からみると、褒めることでそれが正しいと思い込んでしまうのではないかという危惧がある。

「お手伝いができるとお姉ちゃんみたいで格好いいね!」と褒めると、お姉ちゃんらしくあることが正しいと思い込んでしまい、目的がお手伝いをすることから、お姉ちゃんらしくあることに変わる。また、お姉ちゃんらしくあるために実年齢よりも背伸びをしたことを行おうとするが、心身の成長が伴わず挫折してしまう可能性が高い。

 お姉ちゃんなら折り鶴は綺麗に折れるべきだけれど、それに必要な指先の発達は5歳児にならないと得られない。そのため、折り鶴を折ること自体を辞めてしまう。

 加えて「お姉ちゃんならこうすべきである」という強要につながってしまうのではないかという懸念もある。


 では褒めない現場ではどうするか。“認める”のである。

 行なっている事象のみに触れるのである。

「お手伝いしたの!えらい?」と尋ねる子どもに、「お手伝いできたのね」と答えるのである。

 これは、そもそも子どもは出来たものを見せにきただけであって、褒められることを求めていないのではないか、という仮定の元に成り立つ。

 実際、この認める言葉を使うと子どもは満足する。


 私は個人的に褒める保育が好きだ。温い手で頬っぺたを包まれて「えらいね!天才だね!」と言われたい。どれが正しいのか明確に分かるし、私自身褒めることが好きだからだ。「すごい!」という感情を全身全霊で相手に伝えたい衝動に駆られる。


 しかし、私の母親は褒めることをしなかった。かといって認めることもしなかった。それが限界であると思ってほしくなかったらしい。


 たとえテストで100点をとっても褒めない。次もとれるように頑張ってね。で終わる。

 たとえ部活で地区大会を乗り越え県大会に行っても褒めない。あなたの力じゃないでしょう?と諭される。


 舞い上がってはいけない。自分の力を過信してはいけない。

 怪我をしないように、大人らしい思考を身につけさせようとしていたのだと思う。

 結果私は、自分に自信を持てなくなった。


 他にも要因はあると思う。

 例えば、容姿が整っている妹と私を比べて「器量が悪い」と詰る祖母とか。

 勉強ができない弟を励ますために80点でも過剰に褒める母とか。


 誰も私の味方をしないから、せめて私だけは私の味方をする。頑張ったね、すごいよ。と自分を褒める。

 でも、その褒め言葉でさえ自信を失って。頑張ったつもりだけど、すごいのかなぁ。と落ち込む。


 何が正しいのか分からなくなった私はおそらく混乱していたのだろう。


 小学生の頃。読んだ小説にあった“人身事故”の描写にひどく感動してしまったのだ。


『肉片が辺りに散らばり、人でなくなった赤いソレが草むらにぼとりぼとりと落ちたのだ。』


 新しい刺激に胸がドキドキした。想像をして、素敵だと思ってしまった。


 不謹慎であることは自覚している。死に対して疎いわけでもない。小学生にして片手に収まらないほどのお葬式に参加していた。感受性も豊かで、終学活に担任が教え子を亡くした話をした際、人目もはばからず号泣したほどだ。


 しかし、そこから雪崩れ込むように嗜好が変わっていった。


 食人、怪奇事件、死刑執行、虐殺、交通事故、猟奇趣味、底のない恐怖、地獄。


 そういったものにとことん感動した。

 自分の想像し得ない世界に陶酔していたのか、人の形を失うことに憧れを抱いていたのか、それは分からない。

 けれど、刹那的な終わり方はどうにもドラマチックに感じてしまって、殺人を犯した者たちの偏った考え方はアイデンティティというワードを彷彿とさせた。

 そしてその感動を友人と共有しようとした時、友人はあっさり拒否をした。気持ちが悪い。おかしいと。

 その瞬間、自分は人と異なるものが好きだということを自覚し、それもまたアイデンティティであると錯覚してしまった。そうすると自分の個性を“気持ち悪いものが好きな人間”として個別化でき、正しい形を求めて浮遊していた自分の存在自体を簡単に確立することができた。同時に、人が否定ではなく拒否をしたことで私の思考は間違っていることではないと判断した。自分自身を難なく肯定することができたのである。


おそらくここが分岐点だったのだと思う。

引き返せば引き返したなりの道があったはずだ。


 いくら正しい形を求めたところで完璧になるのは難しい。100点をとっても1つでは認められない。継続しなくては。ではいつまで継続すれば認められる?決まっていない。

 けれど、正しい形ではなく、人と異なる思考をしていれば、相手の基準で自分を評価されることはない。それが分かった私はやがてポジティブを手に入れる。


否定よりも拒否の方が受け入れやすかった。


 本サイトで小説を投稿しても読んでもらえない、評価されない、そういった時に発想を転換させる。

 自分の小説や価値観は否定されているのではなく、拒否をされているだけである。自分の舌に合わない料理をあえて食べるか?そんなの余程の物好きか味音痴だ。

 だから考え方を変える。

 自分の独り善がりな価値観を書いて投稿しているのだから、見られたら恥ずかしいじゃないか、と。


スリルを求める異常者の心持ちになろう、と。


 本来なら読者に向けた話を書くべきなのだろう。例えば流行りの転生、悪役令嬢、婚約破棄など。

 流行りのものを書いても尚読者から拒否をされる。拒否されればされるほど、私の偏った思考としてアイデンティティは確立される。


 けれど、苦手だ。主人公が強い話というのは世界観の細部まで始めから作らないといけない。何故話の中の住人たちは主人公

 の強さを認めるのか、それがはっきりと分かるような仕組みを作らなければいけない。難しすぎる。


 だから私は私の世界観を言葉に表していく。独り善がりな世界で自分一人で踊る。気楽だし心地よい。

慎重に保険をかける。誰も読んでくれなくても仕方がない。だって読者に向けた書き方をしなかったのだから。性癖を淡々と語られて感銘を受ける人はいないだろうと。


 小説の書き方だって独学だ。文字の並びや響きが心地よいように作っている。定型文なんて知らない。

 1番はじめに投稿した理由も、現在使っているアプリが何かしらの理由で消えてしまった時、今まで書きためてきた小説が消えることを想像してゾッとしたからだ。だから保存用に投稿した。

 それが何を間違えたのか、案外良い出来だから人に読んでもらいたいなんて思ってしまった。思ってしまったからには仕方がない。

 ネガティヴに考え直す。

 読んでもらえるはずなんてない。こんな駄作に吐き気すら催すだろう。けれど、人に吐き気を催させることができる小説なんて稀有ではないか?イコール、アイデンティティではないか?


 評価されれば純粋に嬉しい。本来は認められることを目的にしているのだから。


 けれど、ネガティヴに考えた方が保険をかけられる。何かあったとしても受け身をとることができる。


 これは他にも応用できる。

 運動音痴であれば、学年で1番運動ができない子としてアイデンティティが成り立つ。おまけに学年最下位の人間の気持ちを味わうことができる。最下位なんて滅多になれないため貴重な経験である。

 絵が下手なのであれば、絵が下手なりに自分らしいキャラクターを作ればいい。模写が出来ない分、オリジナルのものが作ることができる。

 顔が可愛くないのなら、顔が可愛くないキャラとして売っていけばいい。顔が可愛くないくせにぶりっ子なんて滑稽だろう。道化すらお手上げだ。


 何もできないのなら、何もできない子として振る舞えばいい。相手が何もできない子を前にしてどんな態度をとるか、それは本人しか体験し得ない。


 もちろん、何でもできた方が人生は楽だ。

 けれど、出来ないことをネチネチ弄るくらいなら個性として受け入れた方が得るものは多い。


 ネガティヴは幾つかの分岐点を間違えると変態になる。

 ここでいう変態は、人が理解し難い性癖を持つ者とする。

 性癖は、ネガティヴな人間が最終的に獲得できる、自尊心を保つための拠り所である。

 何故なら性癖とはとてもディープで、明確な形がなく、アイデンティティとして確立しやすいからだ。




はじめに例として挙げた遊びに誘われた際の受け取り方。


「実は私なんかと遊びに行きたくないけど、きっと彼女は善の立場になるために善人らしい立ち振る舞いをしなきゃいけないんだな。ここで断ってしまったら“こんな底辺の人間に振られた人”という汚名を着せてしまうから、せめて彼女を“こんな底辺の人間とも親しく接する女神”として立てるよう尽くそう」


と、


「実は私なんかと遊びに行きたくないし、行くつもりもなくて、私が断ることを前提に建前上誘ってくれたんだな。分かってます。シフト入れておきます」


は、“ネガティヴな子”として振る舞う自分の心情を冷静に分析し、知識として蓄えているのだ。


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― 新着の感想 ―
[良い点] >私が今呼吸をしたことで隣の人と酸素ないし二酸化炭素を交換をしてしまった。不快に思っていないだろうか。申し訳ない 噴きました。流石にそこまでネガティブな人は二次元でも見たことがないです。…
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