1 はい、噛まれました
「痛い……」
呻くように声に出していた。
歯形が必要以上にはっきりついた右腕を見て、溜息をつく。
「なんでこんなに痛いことするの?」
と問いたくなるが、もう数百回投げかけた疑問を今更ぶつけても仕方がない。どうせなんとなくと言われて終わりである。
俺はこれ以上噛まれないように、椅子から立ち上がり脱走を図る。彼女――嫁はそれを許さじと抑えつけ、更に俺の肩へと一撃を見舞う。
もはや抵抗は叶わない。普段は大した力も無いはずなのだが……。がっちりと掴まれた左腕は、血液の流れが止まるんじゃ無いかというくらい締め付けられ、こちらはこちらで痛いのである。こうなるともう諦めの境地。彼女が満足するまで噛まれるしかない。
そう、俺の嫁はいつも俺を噛むのである。
最初に言っておくが、お互いに嗜虐趣味はない。俺は噛まれて痛いし、彼女は噛むことに快感を覚えているわけではない。お互い別に変態ではない。そこは絶対である。
では理由は何か?
そんなこと俺が一番知りたい。
今のところ俺の人生で一番の疑問である。結婚して2年。ひたすら続くどんな叡智を集めてもわからないであろうこの事象に対して、俺は真摯に向き合うことにした。
ということで冷静に分析してみる。まず、『噛む』という行為に対して考えてみよう。
日常で噛むことと言えば、食事であろう。人間の基本であり、ほぼ絶対的に必要な行為である。
しかし食べ物ではなく、体に噛み付くという行為。
最初は犬が行うマーキング的な意味、すなわち『私のものよ』的な意味だと思い、婚姻したばかりの不安からくる行為である、と自己分析したのだが、2年経っても落ち着く様子はない。
「浮気が心配?」と一度聞いたことがあるのだが、「あんたみたいな人、他に誰がかまってくれるの?」と一蹴された。それもそうだ。俺は『ブサイク・金なし・甲斐性なし』の三点セットである。そんな心配はしたこともないらしい。
では「新手の愛情表現なのでは?」とポジティブに考えたこともあった。
しかし愛情表現にしては痛すぎる。何せ本当に心の底から『痛い』と叫んでも、まったく取り合ってくれないのである。おかげで体中痣だらけ。「これDVじゃね?」とちょっと思ったのは秘密にしている。こんなに痛いのに愛情もクソもあるか、というのが独自の結論である。
彼女なりの画期的なストレス発散法である、というのが三つ目の推論であった。
しかしゲームをしたり、絵を描いたり、料理をしたりといろいろと多趣味な彼女は、日々のストレスをうまいこと発散しているらしく、言葉で当たられることは少ない。あったとしてもそれはストレスの積み重ねというより、ただの文句である。
はい。もうわかりません。
というのが現在の俺の結論である。
正直二年経っても解決しない問題など、あまり深く考えても仕方ないので、とりあえずぼちぼち考えていくことにする。いつか答えが出ればいいなあという程度だ。
それを受け入れ日常を過ごすこと。それが俺に今できる精一杯のことである。
さて、季節は冬。この二年間の経験上、噛む回数が増えてくる季節である。
はじめまして。うゆと申します。
初回なので、ほとんど設定説明に終始している感じです。
次回から、本編です。