#07:繊細に(六回戦)
―ああーっとおっ! ガンフが初めて! リング上で片膝を突いたぞーっ!! どうした? 目の所を押さえているが!? その指の隙間から鮮やかな緑の液体が流れてきているーっ! ややっ、相手のムロトミッサ選手の口からも同じ液体が垂れているぞっ! もしやそれをガンフの目めがけて吹き付けたというのかっ!? ムロトミッサ、勝利を確信したかのような薄汚い笑みで……しかも口許は緑に染まっている! ……ガンフにゆっくりと近づいているぞっ! 危ないガンフっ!! いや? これを狙っていた! 無防備に近づいた相手に軽く足払いっ!! そして素早く相手の両腕を背後で取って、両足も相手の脚に絡ませっ!! 後ろへと倒れ込むーっ!! これは何だ!? ムロトミッサ、両腕両脚を交差させられ、まるで宙に浮かんでいるかのようだぁーっ!! 完! 全に固定されているーっ! そしてそのまま揺さぶるぞぉーっ!! これは堪らないっ!! 「サセンシタァ」と異国の言語で降伏の意を示すムロトミッサ! 完勝っ! ガンフ連勝を6に! 伸ばしました………
勧められて初めて塩で天ぷらを食べたけど、これは……!! 激おいしかった。オオハシさん行きつけの店らしく、お茶漬けまで出していただき、僕は気持ち良い満腹状態でそのお店を後にし、オオハシさんと共にそのお宅へと向かうのだった。
「……少年は、下宿通いか」
大分年季の入った自転車を押しながら、オオハシさんは僕のガタガタの歩調に合わせてゆっくり歩いてくれている。いったん井の頭公園方面に戻り、そこから静かで車通りもほとんど無い住宅地をしばらく並んで進んでいく。
「武蔵境です。実家は埼玉の奥地なもので……」
まあ、大学がもし実家から通える距離にあったとしても、僕は一人暮らしを選択しただろう。向こうも僕がいなくなったら、せいせいすることだろうし。
「おうここだ。遠慮せず上がってくれや」
オオハシさんが言いつつ自転車を押し込んでいったのは、立派な門構えの、古めかしいが妙に味のある日本家屋だった。門から玄関までは数歩ではあるけど、縁側に面した日当たりの良さそうな庭もちゃんと見える。渋めの佇まいで僕は好きです。
と、その庭の方からオンオンという鳴き声が。まさか……!! 慌てて庭の方を覗き込む僕。いかにもな赤い屋根の犬小屋には、元気そうな柴犬が繋がれていた。茶色でちょっと暗めの毛並みだ。僕のことを警戒しているのか、姿を確認した後は、吠えずにじっと様子を伺っている。
「わ、ワン太郎がっ! ワン太郎君がいるとですかっ!!」
「落ち着け少年、三郎太っていう。やんちゃ盛りだ」
僕はその柴、三郎太に腰を落として近づく。手の甲をぶらりと差し出し、まずはにおいを嗅いでもらう。始めは低い唸り声を出していた三郎太だったけど、敵意が無いことがわかると、僕の体のあちこちをくんくんし始めた。触るよ、と言ってからその首筋に手を伸ばす。堅い感触で、もう毛は生え変わっていることを改めて確認。鼻の長い狐顔。好みだ。
「犬好きかぁ、少年は」
自転車を塀際に停めると、オオハシさんはそう僕の背中に声を掛ける。
「犬派です。というか犬だけ派です」
そう応じながらも、僕はもう三郎太とじゃれ合うことに集中していたわけで。
「なら朝夕の散歩はおまかせだな。体をほぐすにもちょうどいい」
その提案に一も二もなく賛成し、三郎太に一度別れを告げると、引き戸を開けてもらって、オオハシさん宅へと上げてもらう。ここ二日間でだいぶくたびれてきた運動靴をきちんと揃え、上がり框から廊下を渡って居間に通された。擦りガラスの嵌った引き戸は開け放たれていて、フローリングの10畳くらいのスペースには、流しや冷蔵庫、食卓と思われるテーブル、ソファの前にテレビと。大体のものが何となくのイメージ通りにあった。お邪魔します、と声をかけてみるものの、
「今は誰もいねえから、気兼ねすんな。お前さんの部屋はそっちの客間を使ってくれ。先に風呂浴びるからよう、ま、ちっとくつろいでいてくれや」
オオハシさんはそう言うと、帽子をテーブルの上にポンと放ってから出て行った。ひとり残された僕は、示された「客間」へと続く板張りの引き戸をガラガラと開けてみる。居間に直結しているって変わった作りだなあ、とその先に現れた六畳間を覗いてみる。布団が積まれている以外は何も無い畳張りの部屋だ。窓と収納らしき襖が見えたので客間は客間なのだろう。まあ僕のモノに溢れた部屋よりよっぽどいい。
よし荷物を置かせてもらおう、と振り返った僕は、今まで死角となっていたところ……ソファと相対するところに、小さな仏壇があることに気付いた。位牌がふたつ、遺影もふたつ。ひとつは柔和そうな顔つきの五十代くらいの女性。もうひとつは丸顔で、どこかオオハシさんに似た顔つきの若い男性だ。奥さんと……息子さんだろうか。
誰もいないって……そういうことか。僕は持ってきた手土産の水ようかんをそっと供えると、手を合わせて、お邪魔します、ともう一度呟いた。