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カノン(伊咲貴音音楽教室)  作者: FRIDAY
壱 その指先で手繰る音
9/57

クラシックとはこれ如何に

 夏休みは暇である。

 特に、部活にも所属していない俺のような生徒は、時間が有り余っている。

 勿論、進学校なのだから夏期講習などはあるが、授業は選択式で、普段よりずっと少ない。一コマの時間は長いが。


 伊咲さんの音楽教室は、夏休みの間も変わらず週一だったが、時間が多少変わったのだそうだ。俺は変えなかったけど、生徒の中には前後させた子もいるらしい。いずれにせよ、暇な時間が増えたというだけで俺の生活に大きな変わりはなかった。


 だから、どうせならやりたいことをすることにした。

 去年のように、漫然と本を読んでいて気が付けば一日が終わっていたり、漠然とゲームをしていて気が付けば夏休みが終わっているような過ごし方でも悪くはないのだけれど、折角ピアノを始めたのだから、それに関するなにかしらをやってみた方が有意義だろうという話だ。


 とはいえ、俺の家にはピアノなんてない。キーボードだってない。というか、ある家の方が少数派だと思う。とにかくないものはないし、買うお金もないから、家で練習というわけにはいかない。


 ならばなにをするかといえば、平たく言って、座学だ。

 そういうわけで勉強しよう、という意欲を出してみたものの、今度は具体的になにをすればいいのかわからない。だから試みに、音大というものについて調べてみた。音楽大学。そこを受験するにはどんな勉強をしているものなのか――調べてみた結果、

「これは、俺には無理だな」

 軽く調べただけでそういう結論になった。


 ソルフェージュという試験科目があるらしい。乱暴に言ってしまうと、英語のリスニングのようなものだ。その場で演奏を聴かされ、それを楽譜に書き起こす。まだドレミも満足に書けない俺にできようはずもない。


 それだけではなく、それ以外にも俺にとっての課題が多すぎるし、ピアノにしたって始めたのが遅すぎる。いくらなんでも、高二からドレミを練習しているような人間が目指していいものではないだろう。でも調べてみるのは思いのほか面白く、楽典を流し読みしてみたり、音楽史をなぞってみたり、著名な音楽家の伝記を見てみるのは楽しかったから、概ね有意義だったと言えるだろう。


 このついでにクラシックに親しもうと近所のレンタルショップに行ってみたら、そこで部活帰りらしい戸塚に遭遇した。

「あれ、菅生だ。久し振り」

 聞き覚えのある声に振り返ると、戸塚が小走りに近づいてくるところだった。おう、と俺も片手を上げて応える。


「部活の帰り?」

「そうだよ。借りたいCDがあって――菅生もCD、借りに来たの? なに、アニソン?」

「……クラシックコーナーに立ってクラシックのCDを手に取っている人間を相手に、アニソン借りに来たのかって訊く?」

「え、だって」

 戸塚は本気で驚いた、とでもいうように目を見開いて、

「菅生、アニソン以外に音楽なんて聴くの?」

「いつ俺がアニソンしか聴かない人間になったのかを、俺はお前に訊きたいところだけどな……」

 俺が半目で見返すと、ああ、と戸塚はわざとらしく手を打った。

「そっか。ピアノ始めたんだもんね。菅生もクラシックに興味が出てきましたか。なに、なにを借りるの?」


 前のめりに訊いてくる戸塚に、俺は手に取っていたCDを見せる。

「へえ、パッヘルベル」

「うん。『カノン』探してて。でも、このコーナー初めて来たけど、見方がわからないな……」

 正直、演奏家とかで別れているとは思わなかった。違いなんてわからないし。というか、違いなんてあるのか?

「あるよ? 聴き慣れれば結構わかるんだよ。例えばこの人は」戸塚は棚から別のCDを抜く。「かなりパワフルに弾くんだけど繊細さがちょっと。その隣のCDの人は丁寧なんだけどアレンジが多いんだよね」

「お前……グルメリポーターみたいだな」

「なぜグルメ」

 俺の評は気に食わなかったようで眉根を寄せるが、しかし素直に感心した。そんなに違うものだということも、それがわかるくらい親しんでいるらしい戸塚にも。――そうだな。


「俺、クラシックってよくわかんないんだけどさ。よかったら、なにか戸塚のおすすめみたいのないかな。なんでもいいんだけど」

「え、私でいいの?」

 戸塚は、なんだか見るからに嬉しそうな顔になった。クラシック好きを増やせるのが嬉しいのだろう。そうだなー、とCDの棚に向き直って唸る。


「なんでも、っていうのはちょっと漠然としすぎてて。もっとこう、希望みたいのないの? どういうやつがいい、とか」

「ん? んー……」

 希望、といってもな。なにせ右も左もわからない、という感じだから……。


「明るい感じのやつ、かな」

「明るい?」

「うん。『カノン』みたいな明るい曲調」

 少なくとも、『魔王』は勘弁だ。


 言ってはみたものの、それでもかなり漠然とした希望だったが、戸塚にはなにか琴線に触れるものがあったようで、ささっと棚を見回して、一枚のCDを抜き出した。


「これかな。モーツァルトの『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』。演奏してるのは弦楽主体のオーケストラだけど、これはかなり基本的な演奏してると思う」

「オーケストラにも違いってあるのか?」

 ピアノやヴァイオリンなら、演奏しているのは個人だったり少人数だから違いが出てくるというのはまだわかるのだが、オーケストラといえば大人数だ。そんなに変わるものなのか。訊くと、戸塚は頷いた。

「オーケストラごとにもそれなりに変わるけど、一番変わるのは指揮者かな。同じ楽団の同じメンバーで演奏しても、指揮者が違ったら全然違う風になったりするんだよ。勿論なにかアレンジを入れてるってことはなくて、楽譜には忠実なんだけどね」


 ふうん、と聞きながらCDを受け取る。モーツァルトの、なんだっけ。

「『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』だよ。第一楽章はもの凄く有名だから、菅生も絶対聴いたことあると思う」

「そうなのか。クライネ、って聞くと、なんか暗そうな感じだけどな」

 暗いね、って感じで。なんて。

 聞き覚えのないタイトルだったから率直な感想を言ったのだが、戸塚はなんだか、凄いバカを見るような目を向けてきた。

「え、なに」

「いや、バカだなーって」

「そのまま言うなよ。傷つくだろ」

「確か、ドイツ語だよ。クライネっていうのは確か、小さな、って意味。日本語に訳すと『小夜曲』」

「アイネ、ってなんだ?」

「さあ。そこまでは覚えてない」

 成程ね。その辺りは後で伊咲さんに訊いてみると詳しいかもしれない。よく知ってるな、と感心してみせると、戸塚はこれ見よがしにちょっと胸を張ってみせた。

「まあね。伊達に中学から吹奏楽をやってませんから。――それにしても、菅生がクラシックか。それってやっぱり、例のピアノ教室の影響?」


 戸塚にしてみれば、俺がクラシックに興味を持つのは余程珍しい出来事であるらしい。まあね、と俺は頷いて返す。

「夏休みは暇だしな。部活も入ってないから」

「そうだろうね。講習が終わったらもうすることないんだろうね。なんなら、今からでもうちの吹奏楽部に入る? 歓迎するよ」

「いや、いいよ。さすがに今からなにかに入部する気にはならない」

 あっさりと断ると、戸塚はあからさまに不満げな顔をして見せた。だがもともと本気ではなかったようで、そこはあっさりと引き下がる。


「まあいいけど。そもそも菅生って、どうして部活に入らなかったの? 中学の時は、なにかやってたんだよね」

「んー、まあ、ね」

 中学の頃は陸上部だった。月地とは中学校は違ったが、大会で顔を合わせることがあったためその頃からの知り合いだ。月地は高校に進んでも陸上を続け、しかし俺はやめた。

 大した理由ではない。ただ、俺には才能がなくって、才能がないことに満足できなかったからだ。


 ピアノを始めたのは、多分ピアノがやりたかったからではないのだと思う。それじゃあなんだ、と言われると困るが、もしピアノがやりたくてピアノを始めたのだとしたら、俺はやはり自分の才能のなさに失望して、早々にやめているだろう。


「…………」

 自分で満足できるくらい、か。


「――ま、いいけど。なにかまともに弾けるようになったら、私にも聴かせてね。菅生がピアノ弾いてるのって、なんだか面白そうだし」

「その面白そうっていうのは、俺をバカにした意味なのか……? 第一、うちにはピアノないし。弾いて見せられるようなピアノなんてないだろ。俺は練習は、音楽教室でしかできないんだから」

「菅生の発表会のときは、うちの部室のピアノ使っていいよ。うちの吹奏楽部って、ピアノやる人ほとんどいなくってさ。ピアノはあるんだけど。ときどき使うのは先生と、先輩がひとりくらい。ピアノは必要だから誰かがやらなくっちゃいけないんだけど……それはともかく、大体空いてるからね。先生に頼んで使わせてあげる」

 発表会って。


「部外者が使っていいものなのか?」

「無断じゃダメだけどね。そんなに厳しくもないから大丈夫」

 そんなものかね。


 まあ――俺がそこのピアノにお世話になるまでには、まだまだ時間がかかることだろう。下手をすれば卒業までかかるかもしれない。なにせまだドレミなのだ。そう一朝一夕にいってたまるか。


 どうせ弾くならパッヘルベルの『カノン』。

 レベルは、自分が満足できるまで――だ。


「ふん。いいだろう。では期待せずに待っていてくれたまえ」

「なにその口調。菅生、弾いてみせる気ないでしょ」

 そんなことはないですともよ。


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