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カノン(伊咲貴音音楽教室)  作者: FRIDAY
壱 その指先で手繰る音
8/57

目標を立てよう

「――うん、今日はここまでかな」

 伊咲さんの一言でようやく俺は一息ついた。時計を見れば、いつの間にか確かに時間になっている。

 伊咲さんのレッスンは、ひとりにつき週に三十分だ。あっという間だった。

 鍵盤の位置を覚えるところからなんだけどな。


「なんか御免ね? 菅生くん高校生なのに、小学生の子たちと同じ内容で」

 眉尻を下げた表情で伊咲さんは俺の顔を覗き込んでくるが、俺は軽く首を振った。

 いやいや。


「実際、ドレミがどの鍵盤なのかもわからないですし、これくらいから教えてもらえるのは有り難いです」

 初めは右手の親指だけで、ド、ド、ド……とメトロノームに合わせて鳴らし続ける。慣れてきたら今度は左手で連打。そして左右交互に……という練習。

 そりゃまあ、この歳になってここから、ということには多少の恥じらいめいた感情は拭えないけれど、でも伊咲さんの前だとそこまでの抵抗は感じない。

 言ってしまえば、俺だって伊咲さんのその歳(って言っても正確に聞いたことはないけど、二十代前半)にしてあれだけの壊滅的な掃除スキルを見てしまっている。だから、なんということもない。


「それに、お陰で五線譜もちょっと読めるようになってきましたし」

 勿論、自分で努力したから、というところもあるけれど、覚えようとしないと覚えられるものではないからな。伊咲さんや、吹奏楽部に参加している戸塚にも覚え方のコツを聞いて、すらすらとまではいかないまでも結構わかるようになってきた。

 俺の返答に、そう? と小首を傾げながらも、一応は納得してくれたらしい。時計を一瞥する。


「次の子が来るまでちょっと時間があるな……菅生くん、この後予定なかったら、ちょっとお茶でも飲んでいく?」

「あ、いいんですか? お願いします」

 たった三十分、必死で指と目を動かして終わりでは、なんとなく少し寂しい。だから一も二もなく頷くと、伊咲さんは少し笑みを見せて別の部屋へ向かった。確かあっちは居間で、キッチンへ行ったのだろう。


 居間には、引っ越しの整理以来入っていないけれど、あれから大丈夫なんだろうか。あの調子だとまた凄いことになっているんじゃないかとも心配だけれど……しかし、そんなことを考えた目で見ると、やはりこの部屋は綺麗だ。確かに、そもそも物が少ないのだけれども、ただひとつだけある本棚にも、今では絵本や児童書が平積みでなく並んでいる。さすがに、日常的に人を招く部屋には気を遣っている、ということか。


「――お待たせー。お茶って言って、本当に麦茶しかなかったけど、どうぞ」

 戻ってきた伊咲さんに差し出された麦茶を、有り難うございます、と受け取って、俺は伊咲さんを見る。伊咲さんは、自分用に持ってきたコップから麦茶を飲んでいたが、俺の視線に気づいて、ん? と、

「どうかした?」

「いえ……音楽教室、どうですか。調子は」

 隣人として見ている分には、結構いい感じなんじゃないかとも思うけれど。うん、と伊咲さんは頷いた。

「いいよー、いい調子。子供たちもちゃんと来てくれるし、練習してくれるし。最近になってやっと、ちょっと気持ちが落ち着いてきてね。これも、引っ越してきた日に菅生くんが手伝ってくれたお陰だね!」

 有り難うー、と拝まれて、慌てて俺は手を振る。そんな、大したことはしていないのだから。

 部屋を片付けただけだ。


「まあ、またなにかあったら手伝いますよ。ひとりだと、困ることもあるでしょうし」

「本当? 有り難う。助かるよー。なにかあったらお願いするね」

 にこっと、伊咲さんは笑った。俺はその笑顔を直視してから、思わず視線を逸らしてしまった。

「……く」

「あれ、どうしたの?」

「いえ、なにも」


 年上って感じがしないんだよな。子供っぽいというわけでもないんだけれど。でも同じ年だとも思われないわけで……それじゃあ、なんなんだろう。

 まあ、なんであれ、人の役に立てることはいいことだ。それで手打ちということにしておこうじゃないか、うん。


「い、伊咲さんって、音大を卒業したんですよね。どうして音楽をやろうと思ったんです?」

 話を別の方向へもっていこうと、咄嗟にそんなことを聞いてみる。自分の中でも不意の質問だったが、これが結構興味のある疑問だった。

 俺は高校二年生で、進学校だからそろそろ進路も考えなくてはならない。まあ、十中八九どこかしらの大学を目指すことになるわけだが、場合によってはその先、就職をどうするのか、といったところまで、具体的に考える必要だって少なくないわけだ。


 音楽。


 ひいては芸術へ向かおうとしているような人間は、俺の周囲にはいない。吹奏楽部所属の戸塚だって、それ以外の部員たちだって、将来をそれで生きていこうと考えているような人はそうそういないだろう。――けれど今、俺の前には音楽を選んだ人がいる。そして伊咲さんは、その過程は知る由もないけれども、ひとつの結果として音楽教室を開いている。


 ならば、そのモチベーションは。


 そんな俺の心構えに、しかし大きく反して、伊咲さんの返答の調子は軽かった。

「そりゃあ、音楽が好きだからだよ」

「……それだけ、ですか?」

「まあね。それだけ」


 うん、と頷く伊咲さんだったが、俺の顔にあからさまに納得していない色が出ていたんだろう。顎に指を添えて考える様子だ。

「なんで、だったかなあ。音楽が好きだから、っていうのは本当だよ。始まりも、今に至るまでも、音楽が好きだから続けてきた――音楽って、楽しいと思わない?」

 漠然とした問いだ。真意を掴みかねた俺が返答に窮している間に、伊咲さんは先を続ける。

「私は、楽しい。歌うことも、演奏することも――踊ることは、苦手だったけどね。運動はあまり得意でなくて」

 高校の創作ダンスとか、苦手だったよと伊咲さんは笑う。創作ダンスか……女子がやってたなあ、体育で。男子が柔道やってる裏で、しかしその実態は男子にとって不明な競技。


「小さいことから音楽が好きだったの。歌って、弾いて。結局ピアノをやってるけど、学生の頃は吹奏楽部で、カスタネットとか、タンバリンとか、フルートとか、チェロとかね」

 急にレベルが上がったな。

「他にも、音楽以外にもいくつかやったけど。でもやっぱり音楽が一番好き。それで、ずっとやってたら、こうなった」

 もの凄いアバウトになった。具体的なところが一切わからないんだが……それ以上は、伊咲さん自身なんとも言えないようだった。


「御免ね、なんだか曖昧で。でもどうして、そんなことを訊くの?」

「いえ、その……俺もそろそろ、進路とか、考えた方がいいのかなって」

「ああ、成程ね。そうだね、菅生くんも高二だったねえ」

 そうつぶやきながら、伊咲さんは宙に視線をさまよわせる。

「私が高二のときは、なんにも考えてなかったよ、ほんと。ただ音楽がやりたかったから、吹奏楽部の強い高校に進学して、大学も音大を受験して。高校はともかく、大学は親に凄い反対されたんだよね。そこで意地になって、押し切って進学して、学費は奨学金と親戚に借りて、死ぬほどバイト、生活費とかはその余りのお金でかつかつで。実家とは今でも折り合い悪くって……って、そんな話をしてもしょうがないね」

 忘れて、と伊咲さんは先程までとは打って変わって弱々しい笑みを見せた。俺は頷くも、多分忘れないだろうなと思った。


 ひとつ、腑に落ちたのだ。伊咲さんが引っ越してきたとき、伊咲さん以外に誰もいなかった、誰も手伝いに来ていなかった理由――そりゃまあ、大学を卒業するくらいの歳になれば引っ越しもひとりでするものなのかもしれないが、余程遠方でもない限り様子を見に来るくらいのことはするだろう。でも、折り合いが悪いというのなら、納得はいく。


「とにかく、私には人生設計とか全くないから、参考にしない方がいいよ。むしろ悪い見本って感じで」

「いえ、そんなことは」

 なんと返したものかわからず、曖昧に返して俺は麦茶を飲んだ。伊咲さんも、間を持たせるためにコップに口をつけた。


 音楽が好きだから。

 楽しいから。

 だから伊咲さんは、親に反対されても、ひとりでもここまでやってきた。

 好きなだけで。

 楽しいだけで。

 それだけのモチベーションになるものは俺の中にあるだろうか。

「…………」

 ない。

 伊咲さんにとっての音楽に相当するような、譲れないようなものを、俺は自分の中に見つけられない。

 漠然と、無難に過ごして、無難に生きて、無難に死んでいく。ただそれだけの人生になっていくような気がしてならない。

 それが悪いことだとは思っていない。けれど。

 それではちょっと惜しいような気がする――なにが。

 なにかが、だ。


「――あはは、まあ私はともかくとして、さ。菅生くんは、どうして音楽始めたの? 今までだって、別にそこまで興味なかったんでしょ? それが、ピアノを始めてみるなんて」

 やや困ったように笑いながら、伊咲さんは言う。伊咲さんとしては、話の向きをちょっとでも変える思いなのだろうけれど、俺の中では変わっていなかった。

「……俺は」

 音楽は、嫌いじゃない。歌うことも、ピアノを弾くことも。

 けれど、好きだと言えるのだろうか。

 好きだと言ってもいいものか。

 黙ってしまった俺を見てこれはいけないと思ったのだろう、伊咲さんは淀んだ空気を断ち切るように軽く手を打った。

「よし、それじゃあとりあえず、目標を決めようか」

「……目標?」

 意図を図りかねて問い返す俺に、伊咲さんは大きく頷いた。その顔には、元の表情が戻っている。

 あの力強い笑みが。


「目標って言っても、最終目標じゃないよ。通過目標。当面の目標。まずはそこを目指そう」

「目標……鍵盤の配置を覚える、とかですか?」

 現状の俺のレベルから考えると、その辺りが順当なところだろう。そう思って言ったのだが、伊咲さんはぶんぶんと首を振った。


「違う違う、もうちょっと遠く。――菅生くん、ピアノで弾いてみたい曲、なにかある?」

「え、ピアノで……」

 考えてみる。そうだなあ、最終的には……。

 思い出す。

 伊咲さんの引っ越しを手伝った日、伊咲さんがお礼だと言って演奏してくれた一曲。


「『カノン』、ですかね」

「『カノン』? パッヘルベルの?」

「ええ。パッヘルベルの『カノン』」


 そもそも、曲名を言えるクラシックというものが数えるほどしか記憶にないのだけれど、それでも『カノン』は、俺も一度弾けるようになってみたいと思う曲だった。

 あの日、伊咲さんが弾いて見せたアレンジも、とまでは、贅沢だから言わないけれど。


 俺の答えを聞いた伊咲さんは、よしよし、と大きく頷いた。

「御了解。それじゃあ菅生くんの当面の目標は、パッヘルベルの『カノン』を弾けるようになること、だね」

「……え、当面の?」

 俺は最終目標のつもりだったんだけれど。だが伊咲さんは、ちっちっち、と指を左右に振る。


「甘い甘い。それくらいで満足してちゃだめだよ。もっといろいろ弾けるようになるの。――プロ並みにとか、人に聴かせられるくらいを目指す必要はないの。自分で満足できるくらい」

「自分で満足できるくらい……?」


 それでいいのか、という思いで俺は問い返す。そんな程度でいいのか。音楽っていうのは、人に聴かせるために演奏するんじゃないのか? しかし伊咲さんは、笑みで頷いた。


「自己満足、だよ。悪い意味でなくってね。誰に聴かせるよりもまず、一番初めに聴いているのは演奏している自分自身でしょ? だから、自分で満足できればそれでいいの。それに菅生くんは、プロを目指そうっていうわけじゃないんでしょ?」

 だからさ、と伊咲さんは言う。

「いっぱい、いろんな曲を弾けるようになろう。――すっごく楽しいよ。弾きたい曲が弾けるっていうのは」


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