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カノン(伊咲貴音音楽教室)  作者: FRIDAY
壱 その指先で手繰る音
7/57

先生

 結局のところ、シューベルトの『魔王』は伊咲さんが覚えている半分にも到達しなかった。もともとの『魔王』という曲もさることながら、伊咲さんの演奏する様が(譜面を思い出しながら弾いているがゆえに)あまりにも鬼気迫っていたため、大泣きする児童が多発したためだ。早々に演奏を取りやめると、その後は泣いた児童たちのために、ひたすらリクエストに応えることになった。もっとも、そのリクエスト(アニソン童謡みんなのうた等)のほとんどを知らなかった伊咲さんのために、俺がその場でスマートフォンを駆使し検索し、伊咲さんに聴かせて、それを即座に伊咲さんが再現する、という流れになったのだけれど。げに驚くべきは伊咲さんの音感と記憶力。


「通ってるよ」

 俺の首肯を受けた戸塚は唇を尖らせる。

「うえー……で、でも、毎日じゃないんでしょ? 行かない日だってあるんでしょ?」

「ん、ああ、そりゃまあ」俺のレッスンは週に一度なんだけどね。「でも、なんで?」

 なんでそんなことを訊くんだろう、と戸塚を見返すと、戸塚は視線を逸らした。

「いや、それは、その、ほら……」

「うん?」

「――要は、夏休みも一緒に遊ぼうぜ、ってことだろ」


 不意に話に入ってきたのは、俺の横の空いていた席に座った、これも戸塚と同じくクラスメートの月地拓人だった。

「夏休み? なにして」

「それはまあ、おいおい考えるとして、さ。ほら、俺は陸上部で、戸塚は吹奏楽部で、夏休みは部活があるだろ? だから予定を擦り合わせないと、なかなか一緒に遊ぶことはできないわけだ。まあお前自身は帰宅部で、オールフリーで、暇人で、酸素を吸ってフロンガスを吐き出すしかすることがないわけだから、俺や戸塚の予定が合いさえすればいいわけだが」

「待て。一部訂正しろ。百万歩譲って俺を暇人だと断定することを大目に見ても、俺にそんな傍迷惑なびっくりスキルはない」世界の敵とか言われたらどうする。ワイヤーで輪切りにされたら怖いだろうが。


「とにかくまあ、そういうわけだよ。戸塚が言いたいのは。な?」

 そう締めて、月地は戸塚を見上げた。俺も戸塚を見上げると、ついっと視線を逸らされた。

「ま、まあ……そんな感じ。で、どうなの」

 ちょっと機嫌が傾いたようだ。だから、というわけではないが、正直に答える。

「音楽教室に通うのは、まあ週に一回なんだけどね。それ以外の日にもたまに手伝いに行ったりする」

「て、手伝い、に?」

「うん」俺は頷く。それを受けて、一瞬戸塚は表情を崩しかけたが、その前に「でもそれも毎日じゃないからね。誘ってくれれば、遊びに行くよ」まあなにをして遊ぶのかはわからないけれど。しかしそう答えると、少しだけ戸塚の表情は綻んだようだった。


「そっか。わかった。誘う」

 うん、うん、と何度も頷いて、戸塚はこちらがなにも声をかける隙を残さず自分の鞄を取り、教室の戸の方へ駆けていった。

 そのまま出ていくのかと思いきや、一度戸口で振り返り、こっちへびしっと指をさして、

「絶対誘うからな! 覚悟しておけ!」

「え、あ、うん」


 勢いに呑まれて思わず頷いてしまったが、一体なにを覚悟すればいいんだろう。そのまま戸塚はまた駆けるようにして教室を出て行ってしまったため、確認もできない。

「……なんだったんだろ」

 訊くともなしに、残っている月地へ問うと、月地はさあねと軽く、

「ま、青春ですな」

「ん、どゆこと?」

「まーそれはともかく。――お前のその通うことにしたピアノ教室って、あれだろ? 伊咲貴音って人が始めたっていうとこだろ?」

「うん。それだよ。なに、知ってるの?」


 月地の家には小学生以下の子供はいないはずだが、そこにも伊咲さんのチラシが入ったのだろうか。それなりに距離があったはずだけど、伊咲さんも頑張っていたようだ。しかし訊くと、いや、と月地は首を振る。

「俺は直接は知らない。チラシが入ってたとしても俺は見てないしな。――俺じゃなくてさ、俺の近所に住んでる子がそこに通うことになったんだと」

 ふうん、どの子だろう。でもまあ、他の子たちと会うことなんて、初回のあの歓迎会を除けばまずないからな。せいぜい、自分の前後にレッスンに入っている子とすれ違うくらいか。


「そうなんだ」

「おう。だからまあ、会うことがあったらよろしく頼――いや」

 ふと月地は、待つまで言わずに言葉を止めた。そして表情を険しくし、俺を睨むように見据えて、

「手は出すなよ。小学生だからな」

「なんの話だよ。出さないよ。小学生じゃなくたって出さないっての」

「ほーう……」やめろ。そんなあからさまに猜疑の目を向けるな。


 しばらく疑いの目を解かない月地だったが、まあいいか、と一旦は収めてくれたらしい――いや、永遠に解いてくれ。

「それはそれとして、だ。――その、伊咲さん? 若いおねーさんなんだってな。実際、どうなの。美人?」

「え、ああ、うん、まあ……」と、反射的に伊咲さんの顔を思い出して、慌てて首を振る。「いやいや、そういう目で見ないよ。見るなよ。伊咲さんは先生だよ」

「でも若くて綺麗なんだろ?」

「それはまあ、うん」

 否定できないんだけど。否定するのも失礼だし。


 俺の返答を聞いた月地は頬杖などつきながら、へえ、とにやにや笑む。

「そりゃあいいな。俺も習おっかな、ピアノ」

「え」

 反射的に大きな反応を取ってしまった。すぐになんでもなかったような振りをするが、さすがに見逃さなかったらしい、月地はさらに笑みを深める。

「なに。ダメかい。もしかしてアレか? お前、惚れたのか? その伊咲って人に」

「んな、そういうわけじゃ――」ない、と思うんだが。

 少なくとも、今はまだ。


 口ごもる俺を見やって、ふん、と月地は鼻を鳴らした。

「ま、いいんだけどさ。せいぜい頑張ってくれよ。……お前、ピアノって弾いたことあったの?」

「いや、全然。せいぜい小学校で鍵盤ハーモニカを吹いたことがあるくらいだな」

「んじゃ、全くの素人か。じゃあ初歩からなんだろうな。レッスンはもう始まってんの?」

「ああ。今日も行く」

「ん、そっか。すぐにか? ――頑張れよ」

 ぐ、と親指を立てて、俺は月地に見送られた。


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