貴女と奏でる音楽
『カノン』を編曲するにあたって一番腐心したところは、連弾に書き換えることと、曲の雰囲気を変えないことだ。
『三つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調』。
それが、ヨハン・パッヘルベルの作曲した曲だ。本来ならカノンとジーグの二部構成になっているけれども、俺が編曲したのは前半のカノンのみ。
カノンの構造とはつまり、追いかけっこだ。
追いかけ続ける。
かつてそうだったように、俺は伊咲さんを追う。
さすがプロ、伊咲さんは初見であるのに全くミスタッチをしない。むしろ俺が間違えそうになるのを堪えつつ、演奏する。
初めは、先生と生徒だった。
やがてそれは、先輩と後輩になった。
今は、どうだろうか。
音が跳ねる。音が遊ぶ。音が踊る。
調律してもらったばかりのピアノは、こちらの指先にちゃんと応えてくれる。
綺麗に、楽しく、優しく、響く。
「――ねえ、菅生くん」
声が聞こえた。横目に見る。伊咲さんは演奏の手を全く緩めることなく、楽譜を見ている。
その唇が、小さく動いた。
「あの約束、覚えてる?」
約束。ちゃんと覚えている。けれど伊咲さんの言いたいのはきっと、ピアノのことではないだろう。もうひとつの方。
俺が、思い出すと今でも全力で悶絶する、あの約束の方だ。
「――覚えてますよ」
答えると、そっか、と伊咲さんは笑った。よかった、と。
「まだちゃんと帰ってきたわけじゃなくて、またすぐに海外に戻っちゃうんだけど、でも、いいかな……私、我慢できなくなっちゃって」
聞いても、いいかな。伊咲さんは言う。その言葉は囁くように静かなのに、不思議と演奏に消されることなく俺の耳に届いた。
「聞いて――くれますか」
俺の小さな問いに、そっと伊咲さんは頷く。
演奏の手は止めない。ずっと、追い続ける。
けれど、どうだろう。
俺は、伊咲さんと並べているだろうか。
先生と生徒で、先輩と後輩で。ずっと俺は、伊咲さんを追い続けた。憧れて、目指していた。
対等だなんて、そんなことは言わない。
けれど、こうして演奏している間だけは、俺は伊咲さんと等しく肩を並べている。
なら俺は、伊咲さんとちゃんと向き合えるだろうか。
向き合えていると――今は、そう思おう。
す、と俺は息を吸った。
言う。
「俺、伊咲さんが好きです。だから、よかったら、俺と――ずっと一緒に、幸せになってくれませんか」
一音、震えた。
伊咲さんの指だ。けれどすぐに持ち直して、正しい演奏に戻る。
横目に、伊咲さんの表情を窺う。
伊咲さんは、頑なに楽譜を見ていた。睨むように。けれどその瞳は濡れていて、頬も朱色に染まっている。
「――私、菅生くんより六歳も年上だけど、いいの?」
遠慮がちな問い。けれど俺は、すぐに肯定する。
年の差なんて、関係ない。黒槇さんだって七歳違う月地を好きになった。第一、黒槇さんに年の差など気にするなと言ったのは俺ではなかったか。
「私、もうすぐ三十歳になっちゃうから、結婚を前提としたお付き合いになるけど、それでもいいの?」
ぬ、と腹の底に重いものが下りる。けれど俺は、強く頷いた。
躊躇ったわけではない。恐れたわけでもない。ただ、俺自身にとっての自信のなさが芽生えかけただけだ。
それを押し込んで、俺は頷く。今の俺は、伊咲さんと並んでいる。
気おくれなどしない。
「それじゃあ……それじゃあ、私、まだしばらくヨーロッパを転々としてて、なかなか会うこともできないけど、それでも?」
「構いません」
その程度。今までと変わらないだけだ。距離なんて問題になるものか。
「私まだ両親と完全に仲直りしてなくて、だから挨拶に行くとどうなるかわからないけど、大丈夫?」
「大丈夫です」
障害とも思わない。俺の両親は……まあ、ああいう人たちだから、割と淡々と受理されそうでそれもちょっと怖いが。
「でも、でも……」
伊咲さんは、なにかを探すように言葉を連ねる。そしてとうとう、こう訊いた。
「――私なんかで、いいの?」
それは不安。自分でいいのか、というのは、認められるかどうかということへの恐怖。
そんなもの、答えは決まっている。
「伊咲さんだから、いいんです」
俺が憧れたのは伊咲さんで。
俺が目指したのは伊咲さんで。
俺が好きになったのは、伊咲さんなのだから。
「伊咲さんじゃなきゃ、ダメです」
恥じらいなんて感じない。今度こそは、決して間違って口走るわけじゃない。
俺の意志をもって、伝えるのだから。
そっか、と伊咲さんは小さく言った。その言葉は、わずかに湿りけを帯びている。横目に見ると、伊咲さんはやっぱり楽譜を見続けていて、けれど今では頬だけでなく顔全面が真っ赤になっていて、だから楽譜から視線を逸らさないのは照れ隠しなのだと、さすがの俺にもわかった。
ありがとう、と伊咲さんは言った。
「ありがとう、菅生くん」
演奏するふたりの手が、わずかに触れる。
「――不束者ですけれど」
音楽は止まない。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
ふたりの音が、重なった。




