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カノン(伊咲貴音音楽教室)  作者: FRIDAY
参 告げる想いに響く音
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貴女と奏でる音楽

 『カノン』を編曲するにあたって一番腐心したところは、連弾に書き換えることと、曲の雰囲気を変えないことだ。

 『三つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調』。

 それが、ヨハン・パッヘルベルの作曲した曲だ。本来ならカノンとジーグの二部構成になっているけれども、俺が編曲したのは前半のカノンのみ。


 カノンの構造とはつまり、追いかけっこだ。

 追いかけ続ける。

 かつてそうだったように、俺は伊咲さんを追う。


 さすがプロ、伊咲さんは初見であるのに全くミスタッチをしない。むしろ俺が間違えそうになるのを堪えつつ、演奏する。


 初めは、先生と生徒だった。

 やがてそれは、先輩と後輩になった。

 今は、どうだろうか。


 音が跳ねる。音が遊ぶ。音が踊る。

 調律してもらったばかりのピアノは、こちらの指先にちゃんと応えてくれる。

 綺麗に、楽しく、優しく、響く。


「――ねえ、菅生くん」


 声が聞こえた。横目に見る。伊咲さんは演奏の手を全く緩めることなく、楽譜を見ている。

 その唇が、小さく動いた。


「あの約束、覚えてる?」


 約束。ちゃんと覚えている。けれど伊咲さんの言いたいのはきっと、ピアノのことではないだろう。もうひとつの方。

 俺が、思い出すと今でも全力で悶絶する、あの約束の方だ。


「――覚えてますよ」


 答えると、そっか、と伊咲さんは笑った。よかった、と。


「まだちゃんと帰ってきたわけじゃなくて、またすぐに海外に戻っちゃうんだけど、でも、いいかな……私、我慢できなくなっちゃって」


 聞いても、いいかな。伊咲さんは言う。その言葉は囁くように静かなのに、不思議と演奏に消されることなく俺の耳に届いた。


「聞いて――くれますか」


 俺の小さな問いに、そっと伊咲さんは頷く。

 演奏の手は止めない。ずっと、追い続ける。


 けれど、どうだろう。


 俺は、伊咲さんと並べているだろうか。

 先生と生徒で、先輩と後輩で。ずっと俺は、伊咲さんを追い続けた。憧れて、目指していた。


 対等だなんて、そんなことは言わない。

 けれど、こうして演奏している間だけは、俺は伊咲さんと等しく肩を並べている。

 なら俺は、伊咲さんとちゃんと向き合えるだろうか。


 向き合えていると――今は、そう思おう。

 す、と俺は息を吸った。

 言う。




「俺、伊咲さんが好きです。だから、よかったら、俺と――ずっと一緒に、幸せになってくれませんか」




 一音、震えた。

 伊咲さんの指だ。けれどすぐに持ち直して、正しい演奏に戻る。

 横目に、伊咲さんの表情を窺う。

 伊咲さんは、頑なに楽譜を見ていた。睨むように。けれどその瞳は濡れていて、頬も朱色に染まっている。


「――私、菅生くんより六歳も年上だけど、いいの?」

 遠慮がちな問い。けれど俺は、すぐに肯定する。


 年の差なんて、関係ない。黒槇さんだって七歳違う月地を好きになった。第一、黒槇さんに年の差など気にするなと言ったのは俺ではなかったか。


「私、もうすぐ三十歳になっちゃうから、結婚を前提としたお付き合いになるけど、それでもいいの?」


 ぬ、と腹の底に重いものが下りる。けれど俺は、強く頷いた。

 躊躇ったわけではない。恐れたわけでもない。ただ、俺自身にとっての自信のなさが芽生えかけただけだ。

 それを押し込んで、俺は頷く。今の俺は、伊咲さんと並んでいる。

 気おくれなどしない。


「それじゃあ……それじゃあ、私、まだしばらくヨーロッパを転々としてて、なかなか会うこともできないけど、それでも?」

「構いません」

 その程度。今までと変わらないだけだ。距離なんて問題になるものか。


「私まだ両親と完全に仲直りしてなくて、だから挨拶に行くとどうなるかわからないけど、大丈夫?」

「大丈夫です」

 障害とも思わない。俺の両親は……まあ、ああいう人たちだから、割と淡々と受理されそうでそれもちょっと怖いが。


「でも、でも……」

 伊咲さんは、なにかを探すように言葉を連ねる。そしてとうとう、こう訊いた。

「――私なんかで、いいの?」


 それは不安。自分でいいのか、というのは、認められるかどうかということへの恐怖。

 そんなもの、答えは決まっている。


「伊咲さんだから、いいんです」

 俺が憧れたのは伊咲さんで。

 俺が目指したのは伊咲さんで。

 俺が好きになったのは、伊咲さんなのだから。


「伊咲さんじゃなきゃ、ダメです」

 恥じらいなんて感じない。今度こそは、決して間違って口走るわけじゃない。

 俺の意志をもって、伝えるのだから。


 そっか、と伊咲さんは小さく言った。その言葉は、わずかに湿りけを帯びている。横目に見ると、伊咲さんはやっぱり楽譜を見続けていて、けれど今では頬だけでなく顔全面が真っ赤になっていて、だから楽譜から視線を逸らさないのは照れ隠しなのだと、さすがの俺にもわかった。


 ありがとう、と伊咲さんは言った。


「ありがとう、菅生くん」


 演奏するふたりの手が、わずかに触れる。


「――不束者ですけれど」


 音楽は止まない。


「こちらこそ、よろしくお願いします」


 ふたりの音が、重なった。


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