隣に並んで
「へえ、菅生くん、ここでやるんだねえ」
案内したのは、ピアノを置いてある部屋だ。居間とはまた別の部屋。そこで、ぐるっと一望しながら楽しげに笑う。
「ええ……そうなります」
お茶をコップに注ぎながら、俺はぎこちなく答える。まだ衝撃が抜けていない――海外にいるとばかり思っていた人が、なんの予告もなく目の前に現れたのだから、そりゃ驚きも覚めやらない。
予告……といえば予告だったのだろうか。先日、伊咲さんがメールで住所について訊いてきたのは。てっきりなにか祝いの品でも送ってくれるものかと思っていたのだが、まさか自分自身がやって来るとは。いや、ある意味では最高の贈り物、サプライズと言えなくもないのだけれど……いかんせん、驚きが大き過ぎて現実味が得られない。
俺が音楽教室を開く旨の連絡を受け取ったとき、その時点では伊咲さんはまだ外国にいたそうだ。海外、イギリスにいた。でも俺からの連絡を見て、その翌日には日本行きの飛行機のチケットを取ったのだと伊咲さんは言う。
「もともと、近々日本に来る予定はあったんだよ。別件でね。一時帰国になるから、完全に帰ってくるわけじゃないんだけどね。だから、予定をちょっと早めただけ」
はあ、と俺は聞く。しかし、それならそうとどうして教えてくれなかったんですか。
俺の疑問に、伊咲さんはふふっと笑った。
「驚かせようと思って」
いやあ驚いた。
「本当に久し振り……五年振りになるんだね。菅生くん――」
コップ越しに俺を見ながら、伊咲さんは言う。
「――背、伸びた?」
「いや、背は伸びてないと思いますけどね」
測ってもいないけれど。でも高校生の頃からはそんなに伸びるものではないだろう。
そうかな、と伊咲さんは小首を傾げる。
「でも、なんだか立派になった」
「……そうでしょうか」
伊咲さんにそんなことを言われると、素直にこそばゆい。俺の中では、俺自身は全然成長しているようには思われないのだけれど。
「い、伊咲さんは、どうですか。外国で――プロのピアニストになれたんですよね。おめでとうございます」
話を逸らすように、話題を伊咲さんに向けた。メールや手紙で祝いの言葉は送ったけれど、直接言うのはこれが初めてだ。ありがとう、と伊咲さんははにかむ。
「今はやっと、軌道に乗ってきた感じ。ソロでなにかやるっていうのはあんまりないけどね。初めの頃に比べれば……初めは、高校の音楽の授業で指導してほしいとか、小さなオーケストラの伴奏とか、そういうことが多かったから。最近ようやく、自分の発表会が開けるようになった感じ」
まだまだ無名だけどね、と笑うけれど、伊咲さんは本当に楽しそうに見えた。ようやく夢を叶えて、今そのただ中にいる。そのことが、楽しくないはずもない。
俺だって、そうなんだから。
「菅生くんは、どう?」
「俺ですか? 俺は……」
近況を、かいつまんで話す。大学を卒業するまでのこと、卒業試験、それから今日に至るまでのいろいろなこと。
伊咲さんは目を細めて聞いていて、俺が一通り話し終えた後で、言った。
「頑張ったね」
短い言葉だったけれど、どうしてかそれが、深く胸にしみた。
「いえ……伊咲さんのお陰ですよ」
全ての始まりは、伊咲さんだったから。
俺がちょっと言葉に詰まってしまったところで、なんとなく間が空いた。沈黙になにか話そうとするけれども、不意の来訪のお陰でなにも用意できていない俺は咄嗟に思いつかない。
けれど――発表会、という言葉で、思い出した。
発表会をしよう。
ちょっと待っててください、と断って、俺は別室へ入る。本棚を探すと、すぐに見つかった。それを携えて伊咲さんの前に立つ。
不思議そうに俺を見上げる伊咲さんに、俺はそれを見せた。
「これを、聴いてほしいんです」
「これは……『カノン』?」
お茶のコップを置いて、伊咲さんは俺からそれを受け取る。そう、それは『カノン』の楽譜だ。
けれど、ただの『カノン』じゃない。
なにげなく開いた伊咲さんも、すぐにそのことに気が付いて視線を上げた。
「編曲、してあるね。菅生くんがしたの?」
「はい」
俺は頷く。それは、俺の大学四年間の最大の成果だ。
初めて伊咲さんの演奏を聴いた日、伊咲さんは友人が編曲したという『カノン』を聴かせてくれた。それを思い出して、俺もずっと考えていたのだ。
何人もの先生を当たって、試行錯誤を重ねて、卒業間際にようやく完成した。
ただ編曲したというだけでは、ないのだ。
「連弾、になってるね」
伊咲さんの言葉に、俺は頷く。
「俺と一緒に、弾いてくれませんか」
その申し出には、少なくない勇気が必要だった。今や伊咲さんはプロの演奏家だし、初見で連弾をしてくれないかとか、それでなくてもプロの演奏家からしてみれば荒が目立つであろう編曲を演奏してくれないかとか、おこがましいのではないかと、わずかに不安だった。
けれど、どうやらそんな心配は全くの杞憂だったということは、すぐにわかった。
俺が申し出る前から既に、伊咲さんは素早く楽譜に視線を走らせていて、旋律をなぞるように小さく口ずさんでいる。その姿を、俺はテストの採点を待つ生徒のような緊張をもって、待つ。
やがて最後まで見た伊咲さんは、にやっと笑った。
「いいね、面白そう。それじゃあ早速、弾こうか」
うきうきした伊咲さんの口調に、俺は深い安堵と新たな緊張を得る。はい、と頷いて、俺は伊咲さんと並んでピアノの前に座った。
かつて先生と生徒だったころよりも近く、隣に。
伊咲さんが楽譜を譜面台に置いて、一頁目を開く。それから、蓋の開かれたピアノの鍵盤を、指先でそっとなぞる。
「このピアノも……懐かしいね。久し振り」
俺も頷いた。もともとが伊咲さんのピアノで、俺は借りているだけだ。だから伊咲さんが望むとき、伊咲さんが日本に帰って来たときに、必ず返す。そういう約束だった。今はまだ一時帰国ということだったから、ピアノを渡されても困るだろう、もうしばらく俺が借りていることになる。
俺と伊咲さんを繋ぎ続けた、ピアノ。
鍵盤に視線を落したまま、ふふ、と小さく伊咲さんは笑った。
横目に、俺に目配せ。
「――弾こうか」
「はい」
俺の頷きをもって、伊咲さんも俺もそれぞれに両手を鍵盤に置く。
どちらも、なにも言わない。
けれど、出だしはぴったりそろっていた。
どちらともなく、ふ、と吐息する。
弾く。




