大切なピアノ
実家から業者へ頼んでいたピアノは、予定通りに俺の新居にまで届き、組み立てなども滞りなく済んだけれども、連絡を取っていた調律師の予定がなかなか合わず、ようやくやって来てくれたのは予定から数日経った頃だった。
まだ若々しい、磯川という調律師は出迎えた俺に開口一番、都合がずれ込んだことを詫びてくれた。形ばかりの謝罪ではなく心底恐縮している様子なので、俺も強いて文句を連ねるようなこともない。大した出迎えもできないが、とりあえず上がってもらった。
まだ肌寒い時節、他愛のない話をしながら、磯川さんが鞄から調律のための道具を取り出すのを眺める。聞けば磯川さんは俺よりひとつ年下らしい。高校卒業と同時に音楽系企業に就職し、以来ずっと調律の仕事をしているそうだ。それならば腕も信頼できるだろう。
まず磯川さんは、ざっとグランドピアノの全貌を見る。それから蓋を開けて弦やハンマーを確認し、次に鍵盤へ移る。
一通りの確認を終えたところで、ほう、と磯川さんが深く吐息した。
「ん、どうかしましたか?」
なにか悪いところでもあったのだろうか。問うと、いえ、と磯川さんは軽く首を振った。
「凄く状態がいいので、驚きまして。四年以上前のもので、数年まともに使っておられないというお話だったので……正直、どんな状態になっているかと思いましたが」
磯川さんの指先が、鍵盤を軽く撫でた。
「想像よりずっと状態がいい。ハンマーも交換が必要なものはなさそうですし、弦の張りも劣化が少ない。弦に関しては数本、換えた方がより安心かと思われるところはあるものの、同じ条件でこんなに劣化の少ないものはなかなかないですよ――物持ちがいいんですね」
しきりに感心される。いえ、とちょっと気恥ずかしく応ずるが、その成果は俺の手によるものというよりは、母の手腕が大きいだろう。全く、これで完全に頭が上がらなくなってしまった。
調律には場合によっては半日から数日かかることもある、ということだったが、先にべた褒めされた通り状態がいいということで数時間で済んでしまった。一応、弦も換えられるものは換えてもらって、音の調律なども済ませてもらうと磯川さんは仕事を終えた。支払いの方も、どうやら相当に安く済んだ。もっとかかるものだと思っていたが。
さすがにすっかり日は暮れたものの、一仕事終えた磯川さんは清々しそうな表情で玄関に立つ。
「いや、今日はいい仕事ができました。大事にされているピアノを見ると元気になります」
この人は、本当に純粋に楽器が好きなんだな、と思った。ただ仕事として調律師に就いているわけではなく、ピアノが好きでこの仕事をしているのだろう。それもまた、音楽への関わり方で、夢の叶え方、ということだろうか。
「それにしても、どうしてあのピアノなんですか?」
帰り際、ふと思いついたという風に磯川さんは振り返って訊いてきた。
「え?」どうしてというのは、どういう意味なのだろう。「なにか変ですかね」
「いえ……状態が相当にいいのは確かですし、あのまままだまだ現役で長く使っていられます。けど、何年も前からあるものだったのですよね。新調しようとかは、思わなかったんですか?」
なにか深い意図がある、というわけではなく、純粋にひとつの興味であるらしかった。だから俺も、偽りなく率直に答える。
「大切なピアノなんですよ、あれは」
俺が伊咲さんから借りている、大事なピアノ。
「だから、あのピアノじゃなきゃダメなんですよ」
俺と伊咲さんを結ぶ、掛け替えのないピアノだから。
俺の返答を聞いた磯川さんは、そうなんですか、と破顔した。道理で、と。
「うん? なにがです?」
「いえ……あのピアノ、いい音がしたので」
調律するにあたっては当然のことだが、磯川さんはピアノに触れて、鳴らしている。鍵盤そのものの具合を確かめることもそうだが、音に異変はないかを調べるためだ。
しかし、いい音?
俺がその意味を把握しかねていることに気付いたのか、磯川さんはちょっと照れくさそうに頭を掻いてから、言った。
「大切に思われている楽器っていうのは、そういう音になるんですよ。温かい音、というか。凄く感覚的な話になるんですけど……わかりにくいですよね」
俺はその言葉を最初驚きをもって聞いていたが、やがて思わず笑ってしまった。
「いや、わかりますよ」
「そうですか?」
「ええ」俺は頷く。伊咲さんの音楽を思い出しながら。「きっと、わかります」
俺の答えに、磯川さんは嬉しそうな顔になった。理解を示されることなんてなかなかないからだろう。実際、そんな詩的なことを言われても、となることが大多数だろうし。
ただ、俺にはなんとなく共感できたというだけで。
それもきっと、磯川さんの抱くそれと完全に一致しているというわけでもないのだろうけれど。
「ああいう楽器は、本当にとてもいい音が出ます――だからあのピアノは、凄く優しい音楽が弾けますよ」
磯川さんの表情から、それが冗談や社交辞令でなく本心で言っているということがよくわかった。だから俺も、笑みで頷く。
「ありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそ。じゃあ、もしなにかあったらまた連絡ください。今度こそ予定通りに腕によりをかけるんで」
では、と帽子を取って頭を下げる磯川さんに、俺は礼を重ねて、見送った。
それから部屋に戻り、なんとなくピアノの前に座る。調律を終え、気持ちを新たにしたばかりのピアノ。
どうなんだろう。
指先で、そっと鍵盤をなぞる。
伊咲さんの音楽は、綺麗で、楽しくて、優しい音がした。
俺の音楽は、一体どんな音で鳴るだろう。
伊咲さんが奏でたように、響いてくれるだろうか。




