夢へ踏み出す一歩
春休みも中程まで過ぎた時分。
季節もすっかり春めいてきたが、まだまだ雪はしぶとく頑張っていて、路肩に溜まるそれらは車から跳ね上がる泥を浴びて汚く凝っている。吐く息はまだ白いし、明け方は余裕で零下に落ちるから朝の歩道はブラックアイスバーンに要注意だ。自転車に乗れるまではまだ当分かかるだろう。
そんな頃合い。
俺はようやく、保留し続けていた進路希望調査書を提出した。
「やっとか。いやーぎりぎりになったな。明日になったら電話するところだったよ」
大いに安堵の吐息をこぼして、担任は笑う。俺は心から深く、頭を下げた。
「すみませんでした」
いやいや、出してくれたから大丈夫だ、と答えながらなにげなく書類に視線を落とした担任だったが、すっと表情が消えた。
まあ、無理もあるまい。
しばし沈黙していた担任だったが、やがてついっと視線を上げ、俺の顔をまじまじと見た。
「……本気か?」
「はい」
俺は即答する。そうか、と返しながら、担任は改めてそれを見る。
俺の進路希望、その第一希望の枠内。
そこには、国内で有名な音楽大学の名が記入されてあった。
ふむう、と担任は唸る。
「まあ、うちの高校から芸術系の大学行くやつは、いないこともないんだが……またなんだって音楽に」
「いろいろと、思うところがありまして」
その詳細については、ちょっとここでは語れないのだけれども。
担任は、そうかそうかと頷きながら、難しい顔を崩さない。その顔のまま、再度俺の顔を見る。
「本気なんだな?」
念を押すような言葉。
「はい」
俺はもう一度、即答した。
「親御さんとは?」
「今晩中に」
いくら放任主義とはいえ、これをやすやすと許可してくれるとは思えないけれども……なんなら喧嘩でも戦争でもやってやろう。
その程度の決意のないままに、なにができるというのだ。
担任は俺の目を見て、なにを悟ったのかは定かではないが、とにかくも頷いて、書類を机の上に置いた。
「そうか。わかった。とにかくこれは受け取ったよ……決めたのなら、親御さんとの相談もそうだが、具体的な勉強とかも調べないとな。俺はこっちはさっぱりなんだが、音楽の先生がなにか知ってるはずだ。確かそっちの卒業だし。そのうち訊いてみるといい」
「はい」
俺は頷く。音楽の先生とは、ピアノを借りる縁で顔見知りだ。全く事情を知らないというわけでもない。
だから、大丈夫。
うん、と頷いた担任は、それから軽い調子で、こちらの緊張をほぐすように肩を叩いた。
「そんな固い顔をするな。そんだけ悩んだんだ、親御さんだって悪いようにはしないだろうし……聞いたぞ、お前ピアノ練習してたんだって? このためだったのかは知らんが、相当練習してたっていうんだからな。それだけ努力できるなら、大丈夫だ。俺も応援してるぞ」
励ますように言ってくれた担任に、ありがとうございます、と素直に頭を下げた。
本当に、伊咲さんの言っていた通りだ。
どんな小さな励ましでも、凄く大きな支えになる。
失礼します、と職員室を出たところで、またいつかのように、ちょうど部活に向かう途中らしい月地に会った。
以前と同じく、おう、とどちらともなく声をかけ、生徒玄関まで並んで歩く。
「――進路希望調査書、出してきたよ」
囁くように言った俺に、お、と月地は反応した。
「マジか。で? 結局どこって書いたんだ」
俺は、ぼかすことなくはっきりとその名前を告げた。数秒の沈黙の後、月地は、へえ、と吐息するように頷いた。
「音楽大学か……そっか。目指すんだな」
ああ、と俺は頷く。月地は、それ以上深く追及してはこなかった。月地は俺がテーピングをしていたことを、その理由を知っている――だから、なにか察せられる部分もあるのかもしれない。
俺は、月地に即断で批判されなかったことに、安堵した。安堵して、不安だったということに気が付いた。やっぱり、こういう進路にするというのは、思っていた以上に勇気を必要とするようだ。
憧れた人の、あとを追うようではあるけれど。
「――夢を、描いたんだ」
「夢?」
なんだ、とこちらを見やる月地に、俺は言う。
「憧れた人が目指した夢の、その半分――それと同じものだよ」
「憧れた……あの音楽教室の先生か」
月地の言葉に、俺は頷く。
生徒玄関に至るも、俺も月地も急がない。ゆっくりと靴を履き替えていく。
語る。
俺の描く夢を。
「いつか、自分の音楽教室を開こうって、そういう夢」
それは、伊咲さんが描いた夢の片割れ。
伊咲さんはその夢を半分叶え、そしてもうひとつの夢へと進路を変えた。
今も遠い空の下で、夢を叶えるべく頑張っている。
……あのときは、全くのミステイクとして暴露してしまったわけだけど。
今度こそはちゃんと、憧れたあの背に追いついて、肩を並べて、向き合って。
堂々と俺が俺として俺らしく、伝えるために。
そのために、目指す。
だからこれは、必ずしも伊咲さんのあとを追おうとしているわけでも、継ごうとしているわけでもない。
俺が、俺の夢として、抱く。
目指していく。
伊咲さんがそうしたように。
俺も努力する。
努力し続ける。
「――そっか」
靴を履き替えた月地は、俺を待ちながら落とすように応えた。凄いな、と。
「そこまで考えてるとは……驚きだ」
「さらっと失礼なこと言ってないか?」
「俺も見習わなきゃ、ってさ」
半目で見る俺に、スパイクシューズを担ぎ直しながらにかっと月地は笑う。
「俺だって、晴夏に見合う男にならないといけないし……今はまだまだ部活あるけど、引退したらちゃんと受験生やるぞ。バリバリ勉強して難関国公立に受かってやるからな。夢はまだ見えないけど……菅生にも負けないくらい、でっかい夢を掲げてやる」
く、と突き出された拳に、俺は苦笑しながらも同じく拳で打ち合わせる。
頑張ろうぜ、と。
「俺も頑張る。お前も頑張れ、菅生。戸塚だって応援してくれるさ。そんで、いつかお前が音楽教室開いたらそのときには、お前の演奏会だ! 約束な!」
「ああ――約束だ」
ありがとう。
月地は肩越しに手を上げて応えて、外に、春の陽気のもとへ踏み出していく。
その約束は、奇しくもいつか、戸塚としたのと同じような約束だった。その偶然に、俺は小さく笑う。
絶対に叶えよう、絶対に果たそう。戸塚との約束も、月地との約束も、そして――伊咲さんとの約束も。
だから、そのために。
俺も強く、大きく、光の中へ踏み出した。




