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カノン(伊咲貴音音楽教室)  作者: FRIDAY
弐 貴女へ贈る音楽
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待ってる

 自分がなにを言ったのか。実のところ俺自身、よくわかっていなかった。ただ、思っていたことを言っただけ、そのつもりだった。


 だが、俺の言葉を聞いた伊咲さんが、初めの数秒をぽかんとし、次いでみるみる顔を赤らめながらあわあわし始め、ついに顔を両手で覆い隠してしまった段になって、ようやく俺は自分の口走った言葉を顧みるに至った。


 ちょっと、待て。

 俺はなんと言った?


 いつか伝えたい気持ちがあるのだと、そう言ったのではなかったか。

 ちょっと待て。落ち着け。

 俺はたった今、はっきりと言ってしまったのではないか。



 あなたが好きですと、告白したも同然なのではないか?



 ウルトラミス!

 今度は俺が赤面する番だった。


 顔だけでなく、全身が激しく発熱する。一瞬で沸騰したように汗が噴き出る。

 言い繕おうにもなにも言葉にならず、伊咲さんと同じようにあわあわと慌てるばかりになった。


 輪をかけて恥ずかしいことには、ただの告白ですらないのだ。中途半端に念頭にあった言葉が残ってしまっていたせいで、なんとも中途半端なことになってしまった。ストレートに告白できていないだけ、ちゃんと告白してしまうよりタチが悪い。


 いつか告白します、だなんて。

 告白予告なんて聞いたことがない。


 ぷ、と噴き出す音が聞こえた。

 見れば伊咲さんが顔を手で覆ったまま、小さく肩を震わせている。


 慌てていた伊咲さんが、伊咲さん以上に慌てる俺を指の間から覗き見て、その荒れように思わず笑ってしまったようだ。俺としては全く笑えない、穴があったら入りたい、ないなら掘ってでも埋まりたい心境なのだけれど。


「ふふ――ははっ」


 ぐあ、となすすべなく崩れかける俺を前に、とうとう伊咲さんは大きく、声を上げて笑い始めた。

 晴れやかに、伸びやかに。楽しげに、屈託なく。

 その笑顔が見られただけでも、俺の成果とするべきだろうか。


 最後の最後に致命的なミスを犯してしまったせいで、折角ここに至るまでに築き上げられてきた雰囲気をことごとく派手に粉砕してしまった。しんみりし過ぎるのも嫌だけれど、もう少し厳かな別れにしたかったのに。


 なにも言えない俺は、ただ顔を真っ赤にしたまま唇を尖らせている他ない。ひとしきり大いに笑った伊咲さんは、まだ肩を跳ねさせながらもようやく大笑を収めると、目じりに浮いた涙を拭いつつ言った。


「凄いね、菅生くん。『カノン』弾けたね。まだ完璧とはいかなかったみたいだけど、それだけ弾ければ第一目標はクリアだね。うん、これからもたくさん、いろんな曲が弾けるようになるよ」


 とりあえずは、弾き終えた『カノン』を評価してくれる――いや、俺のミスはスルーしてくれるのだろうか。触れずにいてくれることは恥じ入っている身としてはありがたいのだけれど、それはそれで少なからず寂しくもある。


「知らなかったよ、菅生くんが練習してたなんて……すっごい練習したんでしょ、もしかして、この間の腱鞘炎もその練習のせい?」

「……ええ、まあ」


 ピアノあったんだ? という問いには、友人に頼んで学校の音楽室にあるピアノを借りました、と説明する。ただいかんせん、まだ恥じらいが抜けずぼそぼそとした答えになったし、伊咲さんの方を見ることすらできない。まだ俺の顔は赤いままだろうしな。

 にっと歯を見せて、伊咲さんは笑った。


「ありがとう、菅生くん。もの凄く、元気出た。最高のプレゼントだね」

「……いえ、そんなことは」


 ダメだ。まともに受け答えできない。こんなはずじゃなかったのに……数分前の、自己陶酔にビタビタに浸っていた自分を全力で蹴り飛ばしたい。

 失敗したなあ、と激しく後悔。やるせなさが半端じゃない。伊咲さんの答えだって、この調子じゃ望めないし……見逃してもらえなかったにしても、これじゃあ、ねえ。

 真っ逆さまに落ち込んでいる俺に、ふふ、とまた小さく伊咲さんは笑った。本当にありがとう、と言い、それで、と続ける。


「――さっきの、本気なの?」


 うお、と鼓動が激しく跳ねた。なんのお話でしょうかという意図を全力で込めた視線を伊咲さんに向けるも、伊咲さんは柔らかい笑顔で受け流す。

「さっき、言ってくれたこと。――いつか帰ってきた私に、好きだって伝えてくれるって」

 うわあやめて言わないで恥ずかしいから――と内心に悶絶する俺だが、否定しようもないしするつもりもない、観念してうなだれるように頷く。


 そっか、と伊咲さんは笑った。それから、沈黙。

 空白を訝しく思った俺がそっと窺うように伊咲さんを見上げると、伊咲さんは俺が全く予想だにしていない表情をしていた。


 伊咲さんは笑っていた。

 伊咲さんは泣いていた。

 笑いながら泣いていた。


「嬉しい」


 伊咲さんはそう言った。嬉しい、ともう一度繰り返し、頬に止めどなく伝わる涙をそのままに、笑む。

「すっごく、嬉しい――本気なんだよね、菅生くん。本気にしていいんだよね。その約束、私は信じてもいいんだよね」

 重ねられる念押しに、俺はあっけにとられながら頷く。なにか重大な気付きが俺を揺さぶって来るものの、呆然としている俺はそれを気に掛ける余裕がない。


 ただ、伊咲さんを見上げている。

 泣きながら笑う伊咲さんを。

 それなら、と伊咲さんは言った。


「絶対に、いつか、帰って来なくちゃいけないね……帰って来るよ、必ず。だから、菅生くん。菅生くんも、忘れないでね、その言葉、その約束」

 その気持ち。


 絶対だよ、と伊咲さんは笑い、こちらへ手を差し伸べてきた。見ればその右手は、軽く握られ、小指だけが差し出されている。その意図を、ようやく自失状態から立ち直ってきた俺はすぐに悟り、同じ形にした右手を伸ばす。


 絡める小指。

 伊咲さんの指は細く、柔らかく――強さがあった。


 指きりげんまん。

 歌うように唱えた伊咲さんは、俺の目をまっすぐに見つめて、微笑んだ。

 待っててね、と伊咲さんは言う。俺は確かな自分の意志をもって、頷いた。

 俺に頷き返しながら、伊咲さんは笑う。


「待ってるから」


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