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カノン(伊咲貴音音楽教室)  作者: FRIDAY
弐 貴女へ贈る音楽
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全てが口約束に過ぎないのなら

 気付けば曲は、終わっていた。

 全てを弾き終えて、俺の手は鍵盤の上で止まっていた。


 出来はと言えば、自分ではわからない。ずっと間違えていたところはやっぱり間違えてしまったりしたし、指示記号も何度か見逃した。だから、結果としては結構酷いものだろう。

 けれど、詰めていた息を吐きだして、額や背に熱い汗を感じ、荒い息をしてみれば、強い充実感がある。


 やりきったのだ、という達成感。

 三呼吸。

 弾き終えた後の静寂。そこにそれだけの間をもって、俺は口を開いた。


「もしよかったら、ピアノ……俺が借りていてもいいですか」


 え? と俺の言葉の意味をはかりかねて伊咲さんは首を傾げる。けれどすぐに理解し、驚きを顔に広げる。

「……菅生くんが?」

「はい。伊咲さんだって、ずっと外国にいるわけでもないでしょう?」いつか帰ってきますよね。その言葉は俺の願望でもあるようで、内心に首を振った。「例えずっと外国に行ってしまうとしても、それでもいいです。いつか、日本に帰って来ることがあったら、そのときに――返します。必ず」


 だから、俺に貸してください。

 そう言った。


 伊咲さんはすぐには答えない。俺の内心を探るように、まっすぐに目を合わせている。

 その瞳に重ねるように、俺は言葉を乗せた。


「俺、ピアノ続けます。たくさん弾いて、いろいろ弾けるようになって……いつか、いつの日か伊咲さんにまた会えたとき弾いてみせます。『カノン』も、それ以外もたくさん……!」


 必ず。


 いろんな曲を弾いてみせよう。『カノン』も、『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』も、俺の知っている曲も知らない曲も、聴いたことのある曲もそうでない曲も、いっぱい弾けるようになる。

 伊咲さんにまた会えたとき、弾いて聴かせられるように。


 きっとこれは、俺の秘めておききれなかった意地汚さだ。少しでも、伊咲さんとの繋がりを残しておきたいという、諦めきれない心。

 伊咲さんが日本に戻って来るかどうかなんて、全くわからないのだ。プロのピアニストになっても、そのままヨーロッパで活動するかもしれない。例え日本に帰ってきたところで、俺と会うかどうかなんてさらに遠い話で、俺を覚えているかどうかすら曖昧だ。

 それでも、せめて形だけでも繋がりを保っておきたいという、残念。


 だって、俺は――伊咲さんへ、伝えるつもりはないのだから。

 俺が、伊咲さんが好きだという気持ちを。


 伊咲さんが大切で、会えなくなるのが嫌で、他の誰かと幸せになってしまうかもと思うと世界が終わってしまうんじゃないかとすら思えてしまうほどに、大好きだけれど。

 伝えるつもりは、ない。


 告げたところで、なににも繋がらないからだ――繋げることができないからだ。伊咲さんが俺のことをどう思っていたとしても、俺と伊咲さんは遠く隔たれる。どんなに強い気持ちだって、何年も経てしまえばきっと薄れてしまう。


 変わってしまう。


 それならば、全て俺のうちに秘めたままに、俺の中だけで風化していくに任せた方が、きっと優しいままに消えていってくれるだろう。


 全ては口約束だ。

 確実さなんて全くない。伊咲さんが日本に戻って来ることも、俺と再び会うかどうかも、全てが曖昧で、果たされることに希望を見ていない、口だけの約束。


 ――ああ、それならば。


「俺、伊咲さんに伝えたいことがあるんです」


 全てを今、話すわけにはいかないし、これからだってきっと伝えることはないのだけれど。

 これくらいなら、言ってもいいだろうか。


 全てが口約束なのだから、こんなことを。いつか再び会えたとき、伝えたい気持ちがあるのだと、そんなことを言っても、いいだろうか。

 それくらいなら、許されるだろうか――


 そんな思いで、真っ白な気持ちで、深く吟味することもなく、さらっと、俺は告げてしまった。




「いつか、伊咲さんにもう一度会えたとき――俺、伊咲さんに好きだって伝えます」





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