巡る音
弾き始めは、緊張も相まってわずかにたどたどしく。けれどやがてすぐに、慣れた動きを流し込んでいく。何度となく繰り返した動きを、なぞっていく。
鳴らす。
響け、と念じる。
どこに?
俺の中に。
そして願うなら――伊咲さんに。
没頭すれば、やがて無心を経て、否応なく思い出される。
初めて伊咲さんに会ったときのこと。
荷解きを手伝って、そのあとにそうめんを振るまってくれた。
めんつゆがなかったんだよな。
それから伊咲さんのピアノを聞いた。『エリーゼのために』、そして『カノン』、さらにはそのアレンジ。
演奏する伊咲さんは、今思ってもやっぱり輝いていた。見るからに楽しそうで、そしてきっと心から楽しんでいた。
音楽教室を開くんだ、という話を聞いて、参加してみない? と冗談半分に誘われた。そこに誘われるままに、俺は参加した。思っていた以上に小さい子ばかりで、というか俺以外は皆小学生で、正直びっくりした。それでも辞めなかったんだけれど。
あのときには既に伊咲さんに惹かれていたんだろうか、と考えるのはさすがに牽強付会過ぎるか。
全くの素人の俺に、伊咲さんはちゃんと基礎から教えてくれて。音楽や曲に関する話を聞くのはとても楽しかった。たくさんのことを覚えている伊咲さんに素直に感服したし、話し方も上手だった。本当に音楽が好きなんだなと思えた。
それから黒槇さんと知り合ったな。月地の幼馴染だと知ったときは純粋に驚いたな。黒槇さんの気持ちと月地との関係に、大きなお世話ながら気を揉んだりした。
俺が伊咲さんへの気持ちを、憧れなのか好意なのかで迷ったとき、戸塚と気まずくなった。これには月地がいろいろ心配してくれて、いろいろなことを、気持ちを経て、なんとか落ち着くことができた。
戸塚の気持ちは嬉しいし、ありがたいけれど、俺はやっぱり伊咲さんが好きなんだって、そう強く思った。
戸塚と気まずくなる間に、伊咲さんともぎくしゃくし始めていた。それは伊咲さんが俺に、留学のことを話せずにいたためで、話してからも噛み合わないままだった。俺はなにかに突き動かされるかのように気まずい当時の戸塚に頼み込んでピアノを借りて、必死で練習した。まさか腱鞘炎になるとは思わなかったけれど。
思い返してみればいろいろなことがあって、長かったような気もするけれど、一瞬だったようにすら思われる。
いつか遠い未来で振り返ってみればそれは、やっぱりきっと一瞬のことなんだろう。
淡い青春時代の思い出のひとつとして。
そう諦めて過ぎ去っていくのは、酷く惜しい――言ってしまえば、嫌だ。
過去になっていってしまうのは、受け入れたくない。
けれどどこかでは、俺は伊咲さんと同じように――伊咲さんがぬいぐるみや、ピアノと別れていくことを受け入れていたのと同じように、俺も呑み込んでいかなくてはいけない。
伊咲さんが、好きだという気持ちも。
ずっと。




