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カノン(伊咲貴音音楽教室)  作者: FRIDAY
弐 貴女へ贈る音楽
42/57

もう少し

 最後のレッスンは、最後だけれど、今までと同じように始まって、変わりなく進み、大過なく終えた。腱鞘炎が治って、テーピングが取れて、晴れて再び左手も練習に参加できるようになったことを、伊咲さんは素直に喜んでくれた。

 伊咲さんは終始にこやかに、初めて会ったときと変わらないような物腰で接してくれて、しかしそれでもやっぱり、どこかぎこちなさというものが拭えなかった。


 お互いの間にある、わだかまり。

 その解消の仕方が、どちらも見えないままでいる。

 このままでは、こんなもやもやとした距離のまま、どうしようもなく離れてしまう――


 それは、嫌だ。

 強く思う。

 俺は、こんな状態で別れたくはない。

 だから、言う。


 あっという間に三十分を終え、完全に習慣として伊咲さんがお茶を持ってきて、俺がそれを受け取り、どちらともない沈黙。

 その沈黙を破ろうと、今伝えるべきを伝えようと、俺は口を開き、


「――あの」

「あっという間だったね」


 伊咲さんが言った。機先を制された俺は思わず口をつぐむ。伊咲さんはこちらを見ることなく、コップの水面に視線を落としながら続ける。

「ここに引っ越してきてから、まだ一年も経ってないけど、あっという間だった。夏の暑い日にここへ来て、毎日必死で頑張ってるうちに、気付けば冬になっちゃって、もう春が来るよ。……本当に、あっという間」


 囁くような声で、言葉をぽろぽろと落としていく。俺は相槌を打とうにも間をはかりかねて黙っている。

「次の夏には、私、外国にいるんだよね……信じられないよ。ずっと、ここで続けていくつもりだったのに。私の夢で始めたことを、私の身勝手で辞めちゃうんだってことはわかってるのに……やっぱりまだ、迷っちゃうんだ。これでよかったのかなって」


 伊咲さんの言葉に、俺は思わず、く、と息を呑んだ。……そんなことを。

 伊咲さんから、そんなことを言われるとは思わなかった。音楽教室を閉めて外国でプロのピアニストを目指すのは、悩んだ末であってもひたむきに夢を追い求めているからだと思っていた。思って、割り切ろうとしていた。けれど、伊咲さんだって迷っている――


 そんなこと言わないでください。

 引き留めたくなっちゃうじゃないですか。


「私の勝手で急に辞めちゃうことになったのに、皆ちゃんと送ってくれるんだ。昨日までで最後だった子たちも、保護者の人たちも、残念だ、って言って、頑張って、って。そう言ってくれるんだ。それが、凄く嬉しいの。励みになるんだよ」

 こんなに支えられるなんて、初めてだよ。

 伊咲さんは、胸に小さく手を当てて、感じ入るようにそう言った。


「……不安、ですか」

 そりゃ不安だろう。訊くまでもないことだけど、やっぱり俺は訊いてしまう。伊咲さんは、深く頷いた。

「不安だよ。新しいところへ行くときはいつもそう。あれこれと必要ないことまで考え過ぎちゃう……前回は上手くいったけれど、次はこうはいかないかもしれないって、そんなことばかり」

 だって、と伊咲さんは言い、顔を上げた。

 俺に向けられた視線は、いつかのように濡れていた。


「次に行く場所に、菅生くんみたいな人はきっと、いないんだよ」


 つ、と一滴だけ、伊咲さんの頬を水滴が伝う。

「ここに来たときは、菅生くんに会えた。だから凄く頑張れた。挫けそうになってもやってこれた……けれど、次からは自分だけでなんとかしなくちゃいけない」

 弱さかな、と伊咲さんはぽつりと言った。

「弱いんだよね、私は……きっと他の人たちは、そんなことに頼らないで頑張ってる。私は、甘えちゃう。不安で、怖くて、誰かに頼りたくなる……御免ね、菅生くん。勝手に頼りにして、勝手に当てにして……」


 いつかと同じように、伊咲さんは自分を責めて、俺に謝る――繰り返し。

 でも、もう繰り返してもらいたくはない。だから、

「――伊咲さん」

 俺は遮った。心持ち、強く。

 また落ちていた視線を上げる伊咲さんをまっすぐに見つめて、俺は言った。


「伊咲さんは、弱くなんかないです」


 むしろあなたは、強い。

 噛んで含めるように、俺はゆっくりと口にする。


「伊咲さんは強い……自分の夢を、目標をしっかりと持って、それを目指して努力し続けられる人が、弱いわけがないです」

 それができない俺は、ならばどれほど弱いだろう。


「あなたは、強い人だ」

 まぶしいほどに、強い人だ。


「どんな簡単なことでも、どんなに小さなことでも、努力するのは難しいし、努力し続けることはもっと難しい。それができる人は、世の中そんなにいないです。皆、結局どこかで妥協して、無難なところで落ち着いて、満足してしまう」

 夢を追うことを諦める。

 結局夢は夢なんだとか、利いた風のことで自分を誤魔化して、夢追い人であることをやめる。それはきっと、見方を変えればよっぽど賢明な選択なのかもしれない、けれど。

 それでは、寂しい。


「でも伊咲さんは諦めなかった。音楽教室を開くことも、プロのピアニストになることも。だから伊咲さんはそんなに迷って、悩んで、そして努力している。そんな伊咲さんだからこそ、俺は憧れたんです」

 だからこそ、きっと好きになったんです。

 とまではさすがに、言わないけれども。


 初めて語る俺の心情を、伊咲さんは呑まれたように、わずかに目を見開いて聞いている。

 だから俺は言う。


「大丈夫です。どこへ行っても、なにをしていても、伊咲さんは伊咲さんです。どんなに苦しい状況になってしまっても、伊咲さんはきっと諦めない。諦めないで、頑張っていける」

 俺が保証します。

 俺の保証にどこまで信用が伴なえるのか、そこはちょっと自信がないけれども。

 それでも俺のこの言葉が、伊咲さんの小さな支えのひとつになることができれば、満足だ。


「――ありがとう」

 涙を拭って、ようやく伊咲さんは笑った。

「ありがとう。ありがとう――うん。私、頑張るよ。絶対に、ピアニストになってみせるよ」

 だって、菅生くんが保証してくれたんだもんね。


 ちょっと照れたように伊咲さんは言う。いや、相手の口から改めて聞かされると、恥ずかしいのはむしろこっちだ。勢いとはいえ、なんと大それたことを。

 後悔も、訂正もしないけれど。


「今日でレッスンも最後で……これでお別れになっちゃうけど、忘れないよ。菅生くんの言葉――菅生くんがいてくれたこと」


 本当に、ありがとう。

 そう、伊咲さんは笑った。


 けれど、ちょっと待ってほしい。

 確かに俺も、そうですね、と思いはするけれど、まだここでは頷かない。

 お世話になりましたと、そう言うにはまだ早い。

 もう少し。


「……まだ」

「え?」

「引っ越しの荷造り、まだですよね? いつから始めるんですか?」


 玄関とピアノのあるこの部屋しか目にしていないが、どこにも浮足立った気配がないから、居間の方も恐らくまだ準備はしていないだろうと思われた。果たして伊咲さんは、まだだけど、と頷く。

「明日で最後の子たちが終わるから、多分明後日から始めるつもり――だけど」


 言いながら、伊咲さんもどうやら薄々、俺の言いたいことに勘付いたようだ。俺も微笑して頷く。

 引っ越しの際、あれだけ壊滅的な散らかしスキルを発揮した伊咲さんが、そうやすやすと荷造りができるとは到底思えない――ここに来るための荷造りはどうしたんだろうと思うが、あの惨状を思い返すに、入るに任せて箱に突っ込んできたのだろう。


 今回も、そうなるに違いない。

 させるものか。

 伊咲さんの門出だ。綺麗に送り出そうじゃないか。


 そう思い、俺は口を開いたが、またしても、今度は見計らったかのように伊咲さんが機先を制した。

 笑みの見える瞳は俺の言いたいことを察していて、その上で伊咲さんが自ら言う。


「ねえ――菅生くん、お願いがあるんだ」

 かつては、俺が自ら申し出た。

 今度は、

「よければ私の引っ越しの荷造り、手伝ってもらえないかな?」

 伊咲さんからの頼みとあっては、まさか断れるわけもありますまい。


「喜んで、お手伝いさせていただきます」


 わざとらしくかしこまってみせた俺に、伊咲さんは小さく笑った。

 その笑顔に、顔を上げた俺もにっと笑い返す。

 これで、当初の目的は果たした。思っていたのとは少し違う形になったけれど――

 だからあとは、本番だけだ。


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