進路はどうしますか みたび
腱鞘炎は、保健医の見立て通り、二週間前後で完治した。一応念のために病院にも行ってみたが、問題ないだろうということだった。
その間にも伊咲さんのレッスンはあったけれど、これは仕方がない、右手だけで臨んだ。テーピングまみれの俺の左腕を見て伊咲さんは驚いていたが、その理由を答えるわけにもいかない。曖昧に笑って誤魔化した。
そして、そのテーピングが外れる頃、三学期ももうすぐ終わり、二年生を終了し、春休み間近、もうすぐ受験生が始まるという時分。
俺は職員室で担任に頭を下げていた。
「すみません、もう少し時間をください」
俺の言葉に、担任は困ったように深く息をついた。
「菅生なあ、悩むのはいいんだよ。自分の将来に真剣になるのはな。でもさすがに期限は守ってもらわないと……」
「もう少しなんです」俺は頭を下げ、担任と俺の足先を睨みながら重ねる。「もう少しで、決められるんです」
あと少しで、俺の至った答えに、俺自身が落ち着ける。
迷いなく、突き進む。
それだけの自信が得られる。
だから、あとちょっとだけ、待ってください。
俺の懇願に、担任はなおも唸っていたが、最後に鼻息を長く吹くと「わかった」と言ってくれた。
「もう少しなんだな。そうしたら、提出できるんだな?」
「はい」
顔を上げて、俺は強く頷く。担任は眉根を寄せながらも、そうか、と返し、卓上にあったカレンダーをめくる。
現れるのは三月の暦だ。
「進路希望調査書の検討する職員会議が、春休み中のここであるんだ」手書きで春休みと記入された数週の、ちょうど真ん中あたりを指で示す。教師に休みなどないのだよ、と冗談交じりに言いながら、「だからこの前の日までに必ず出してくれ。俺は野球部の顧問だから、春休み中も学校に来てるし、昼前後は大体職員室にいる。必ず出してくれよ。いいな?」
じゃなきゃ俺も困るし、と言う担任に、俺はようやく笑顔になって深く頷いた。
「ありがとうございます! 必ず出しますから」
「おう、頼むぞ。正直なこと言えば、皆お前くらい悩んでくれるとこっちとしても真剣になれるから、ありがたいといえばありがいんだけどな……」
担任は苦い顔をしながらそんなことを言っていたが、それに対しては俺はなんとも言えない。
けど、きっと皆、なにかしらを悩んで決めていくのだろうと思う。
失礼します、と職員室を出たところで、部活に出るため生徒玄関へ向かっている途中らしい月地に会った。おう、とどちらともなく声をかけ、生徒玄関まで並んで歩く。
「どうしたんだ、菅生。なんか神妙な顔して」
半ば面白がるように言う月地に、俺は浅く笑って返す。
「いや、進路希望調査書な」
「おう、あれがどうした」
「あれの期限を延ばしてもらったんだ」
俺の言葉に、え、と月地は驚いた顔をした。
「お前、あれまだ出してなかったのか。悩みすぎだろ」
「そんなことないよ」
むしろ月地は悩まなさ過ぎなんじゃないかとすら思うけれど……俺の場合は特に、どれだけ悩んでも悩み過ぎるということはないんじゃないかと思う。
考えている進路が、進路だから。
憧れて、紆余曲折を経て、そうして垣間見た細い道だから。
……ああ。
思えば随分といろんな人に、道を見つけさせてもらったな。
「黒槇さんに、お礼を言っておいてくれないか。いろいろと、ありがとうって」
「晴夏に? どうして」
こちらは本気で怪訝そうな月地に、俺は苦笑しながら答える。
「振り返ってみると、なにかに迷ったときに踏み出すきっかけになってたのって、黒槇さんだった気がするんだよ」当人としては別段の気遣いや助言のつもりはなく、自分の好奇心に従っていただけなのだろうけれど。「だからさ」
「……ん、わかった。言っとく」
鷹揚に月地は頷く。これくらいのこと、自分で言うべきなのだろうけれど、俺がピアノの練習を始めてからこっち、黒槇さんとはなかなか会う機会がない。平日も休日もなく学校の音楽室に詰めっぱなしだから、時間帯が合わないのだ。
「ま、頑張れよ。応援するぜ。……戸塚には?」
さりげなく、窺うような姿勢ではあるけれど、月地が相当に気にしているのは今となっては俺にも透けて見えた。
俺は浅く首を振る。
「いや、まだ」
でも、
「……いろいろ、話をしたよ」
「いろいろ?」
なんだそれは、と訝しげな顔をする月地に、俺は淡い微笑とともに答える。
「いろいろ、だよ。本当に、いろいろ……ああ、そうだ。なあ、月地」
これはまだ、月地には言ってなかったっけ。
うん、とこちらを見た月地に、俺はためなく伝えた。
「俺、伊咲さんが好きみたいなんだ」
「……ん、お、おう」
一瞬声が詰まるほど驚いたようで、目を丸くした月地はやっとのことで短く答えた。そうなんだ、と場を繋ぐようにつぶやいてから、え、と、
「そ、それって、戸塚にも?」
「話した」
戸塚に、一番初めに伝えた。
好きという感情を、俺に教えてくれた戸塚に。
そうか、と言い、月地はこれもそれ以上詮索しなかった。だから俺も、言わなかった。
戸塚が俺を、好きだと言ってくれたこと。
それでも俺は、断ってしまったこと。
きっと俺よりずっと早くから、戸塚の気持ちに気付いていた月地は、俺の言う「いろいろ」の中に、戸塚と俺とのやりとりも垣間見えたんだと思う。
そうか、と月地はまた言った。
「……腱鞘炎、だったな。そろそろ治るんだろ。その伊咲さんに、『カノン』弾いてみせるんだよな? 調子はどうなんだ」
俺の左腕を指して、月地は言う。月地は俺がテーピングをしていることも、その理由も知っている。ああ、と俺は軽く振って見せて、
「ぼちぼち、かな。これのお陰でかなり遅れたし、むしろ悪くもなったけど、なんとか戻せてきてる……もう少し、なんだけど」
でももうさすがに、最後のレッスンには間に合わない。
そう言うと、え、と月地は眉根を寄せた。
「おいおい、それじゃあどうするんだ。最後のレッスンに間に合わなかったら、もう伊咲さんに会う機会はないんだろ」
「ああ、いや……」
それは、俺には考えがある。
伊咲さんへの気持ちを自覚した今だからこそ、俺は行動できる――いや、自覚してしまったがためにむしろ動きにくくなるかもしれないけれど、そのくらいは、やる。
「多分、大丈夫だよ」
「多分って……」
「ほら――ここまでだ。練習、あるんだろ」
そう言って、俺は足を止めた。あ、とやや遅れて月地も立ち止まる。いつの間にか生徒玄関についていた。
む、と月地は唇を尖らせるものの、自分の用事もある、ひとつ吐息すると割り切ったように靴を履き替え始めた。
「わかった。それじゃあ、信じるよ……結果、ちゃんと教えろよな!」
「ああ、わかってる――ありがとな」
月地にも、本当に、感謝している。人を好きになるってどんな感じなのかとか、思えばなんだか恥ずかしいことを訊いてみたりもしたけれど、月地は真面目に答えてくれた。
その思いを小さく込めて、俺は月地の背に手を上げて見送る。
ランニングシューズを手にした月地が角を折れて見えなくなるまで見送ってから、俺は小さく吐息し、自分の靴を履き替えた。
まだ春休みまでは数日ある。
そして、伊咲さんのレッスンは今日で最後。




