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カノン(伊咲貴音音楽教室)  作者: FRIDAY
壱 その指先で手繰る音
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ファースト・リサイタル

 勢いで処分すると言ってしまった手前遠慮がなくなったのか、俺は伊咲さんにたっぷりとそうめんを食わされた。それはもう、軽く気持ち悪くなるくらい。

 食べた後も、(主に俺が)部屋の片付けを推し進め、夕方になる頃にはようやく八割方の片付けを終えた。


「っあー疲れた……」

「御免ねえ、本当に。でもありがとう! 助かった!」


 くたくたにくたびれて、床に座り込んだままちょっと立ち上がれなくなった俺を拝むようにして伊咲さんは礼を重ねる。疲れ切った俺は、別に、と手を振ってぞんざいに返してしまう。


 それにしても……とようやく片付いた部屋を見渡してみる。

 片付けてみれば、片付くものだ。あれだけ散らかっていた部屋も、すっきりとなった。……これは、俺の片付けスキルがどうという話ではなく、伊咲さんの散らかしスキルが凄まじいと考えるべきだろう。一周回って才能だ。


「いやー、ほんとに助かったよ。これは昼のそうめんだけじゃ割に合わないよね……」

 確かに。

「いや、別にいいですよ。暇だったし」

 それも事実だが。

「じゃ、片付けも終わったし、俺はこれで――」

「あ、そーだ!」

 ぽん、と伊咲さんは名案を思いついたとでも言うように手を打ち合わせた。開いた掌を拳で打つ、あれだ。

「ちょっとこっち来て。いいもの聴かせてあげよう」

 とゆーか、人の話を聞け。


 いや、それはそれとして、いいものを聴かせて?

 そこは普通、見せて、じゃないのか?

 だが伊咲さんは、人の話どころか返事すら待たず、部屋を出て行ってしまった。ちょっと、と後を追って部屋を出ると、伊咲さんは違う部屋の戸の前に立っていた。こっちこっち、と手招きして、入っていく。まさか寝室か、と焦ったが、違う。午前に確認したのとは違う部屋だ。そして、寝室以外で今日まだ一度も見ていない部屋だ。なんの部屋だろう。


 後を追って入ってみると、

「あ――」

 俺は思わず、息を呑んだ。部屋に入って、すぐそこにあったのは、

「ピアノ?」


 それも、グランドピアノだ。決して狭い部屋ではないのだが、圧迫感が凄い……黒光りするグランドピアノは、堂々と部屋の半分を占領していた。その残り半分には、ソファと、小さな本棚が――

 というか、部屋が綺麗だ。


「そう、ピアノ。凄いでしょ。これ運び込むのに苦労したんだー」

「なんでこっちの部屋こんなに綺麗なんですか!」

「え、ピアノよりそっち⁉」


 俺の反応に、伊咲さんは全力で驚くが、驚いたのはこっちだ。

「なんで⁉ こっちの部屋なにも手を入れてませんよ! それってアレでしょ! こっちの部屋は散らかってなかったってことでしょ!! どういうこと⁉」

「どういうことってどういうこと⁉ 別にいいじゃん! 散らかってなかったんだから!」


 その散らかっていなかったというのが大いなる問題なんだが……落差が激しすぎるだろう。片や地震か強盗にでも遭ったかのような惨状。そして片や――いや、そもそも物が少ないのか。ピアノと、ソファと、申し訳程度の観葉植物と、小さな本棚しかない。しかも本棚は、空っぽだ。


「ここ、なんの部屋なんですか。ピアノ……演奏? するんですか?」

 ひとしきり部屋を見渡した後、振り返って見ると、伊咲さんはなんだかこの上なく得意げな顔で胸を張っていた。

「そうそう、演奏するの。しかもね、ピアノ教室、開いちゃうの」

「ピアノ教室……伊咲さん、ピアノなんて弾けるんですか」

「なにその疑わしげな顔。弾けるよーこれでも音大出身なんだから」

「……音大⁉」

「だからなんでそんなに驚くかなー。――ほらこれ、チラシ」

 軽く手渡されたのは、A4サイズのコピー用紙だ。手書きでなにやらカラー印刷されている。いわく、


「伊咲貴音音楽教室」


「なーんてね。この辺りに住んでる小さい子をターゲットにピアノ教室開こうと。ほら、そう遠くないところに保育園あるでしょ? 小学校もあるし。だからちょうどいいかなって」

「はあ。まあ、保育園も小学校もありますが……」

 見れば、本棚の上には同じものらしいチラシが束になっている。どうやら本気のようだ。

「明日辺り、ご近所のポストに突っ込んで回る予定なんだけど、なんなら君も手伝わない?」

「手伝わない? って、随分軽い調子で言ってくれますがね……」

 確かに明日は日曜日で、これといった予定もないが。


 一旦返事は保留として、俺は改めて部屋の半分に鎮座しているそれを見た。

「……俺、学校とかコンサートホールとか以外で、というか人の家にグランドピアノが置いてあるの初めて見ましたよ」

「でっしょー、普通はないからね。馬鹿高いし、これもまだまだローンが……じゃなかった」


 ぽん、と自分の額を叩いて仕切り直しとしたらしい伊咲さん。なんだ、と思って見る間に伊咲さんは俺の前から移動し、ピアノの前の椅子に座る。鍵盤の蓋を開けて、それからようやくこちらを見た。

「なに、聴きたい?」

「はい?」

「なんでもいいからリクエストしてよ。大抵弾くよ」

 へいへいとカモン系の手振りをする伊咲さん。見るからに楽しそうだ。なんだろう、そういえばいいもの聴かせてあげようとか言ってたのはこういうことか? 手伝いの礼も兼ねて、か。


「でも突然言われてもな……」

「あ、一応、クラシック路線でね。耳コピとかちょっとできないからね。あとナントカ超絶技巧とかも勘弁してね。楽譜ないと手も足も出ないからね」

 次々と条件を狭めていく伊咲さん。なんでもと言った割りに、とは言わないけれど、それでもクラシックに絞られたところで思いつくものは……

 うーん。

 ぱっと思いつかない。


「やっぱりすぐには思いつかない? それじゃー……これなんか、どう?」

 言って、伊咲さんはおもむろに鍵盤に指を置き、弾き始めた。刻むように、やや低い調子に奏でられる。これは――

「あ、それ聴いたことあります。確か……『エリーゼのために』、でしたっけ」

「そう。ベートーヴェン。ルードヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン。ドイツ人で、古典派の――いや、その辺はまあ、いいか。ほら、『交響曲第九番』を作曲した人」

「ベートーヴェンくらい知ってますよ。『第九』だって。……名前だけだけど」

「この『エリーゼのために』は、ベートーヴェン自身の悲恋の曲と言われてたりもするけど……」

「そうですね。なんか雰囲気が暗くて、あんまり好きじゃないです」

「あれ、好きじゃなかった? じゃあ――これなんかどうかな」


 ほとんど指を止めることもないまま、流れるように曲が変わった。打って変わって明るく、伸びるような音から跳ねるような音へ。これは、

「あ、これはわかります。パッヘルベルの『カノン』ですよね」

「そうそう。ヨハン・パッヘルベル。パッヘルベルもドイツ人だね。時代的にはさっきのベートーヴェンより少し前かな」

 滑らかに指を動かしながら、伊咲さんは続ける。

「正確には曲名は『カノン』じゃなくて、えっと……『三つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調』っていう曲に組み込まれている一曲なんだよね。カノンっていうのは音楽の形式のひとつで、輪唱っていうとわかりやすいかな。ほら、『かえるのうた』でよくやるやつね」


 長々と話しながらもミスタッチすることがない。楽譜を置かずに弾いているのだから暗譜しているということだろうが、それにしても器用だ。そしてなにより、楽しそう。

 あれこれと話してくれる、曲や作曲家にまつわる話はそれもそれとして面白いのだが、なによりそれを話している伊咲さん自身が楽しそうだった。――教えるのが好き、なのだろうか。成程それなら、音楽教室というのも悪くない選択なのかもしれない。先程までの別室の惨状を目にしてさえいなければ、素直に感服しきったところだろう。

 落差が激し過ぎる。


「ちょっとアレンジしてみようか」

「え?」

 唐突な発言に、俺がまともな反応を返すのを待つこともなく、音色が変わった。

 速い。そして細かく、多い。

「うわ……すご」

 思わずもれてしまった俺の声に、伊咲さんはにやりと笑った。でしょ? とでも言うように。だが本当に凄い。曲が同じカノンであるというのはわかる。けれども、なんと言うか、かなりポップなアレンジ。

 跳ねる跳ねる。


「凄いですね。そんなことできるんですか」

「まあねー。――なーんて。実は大学でよく遊んでたんだよね。友達と。編曲が得意なのがいてさー」

 ふふ、と軽やかに笑う。本当に、楽しそうだ。

「実際のところ、パッヘルベルはこのカノン以外にカノン形式の曲は作曲してなくってね。でもいろいろあって、このカノンがパッヘルベルの中で一番有名になっちゃってるんだよねえ」


 つぶやくように話しながらも、指先は淀みない。

 跳ねる、跳ねる。

 そして流れていく。

 こういうとき、クラシックなドラマやアニメなら格好のいい解説を交えたりしながら情緒豊か言葉巧みに感想を述べたりするところだろうが……残念ながら、俺にそこまでの感性はない。だから、こんな感想しか出てこない。

 綺麗だ。


「――と、こんなもんかな。どうでしたー?」

 じゃん、と手のひらをこちらへ向けて両手を開いてみせる伊咲さん。俺は、なにか言おうとして、でも陳腐な言葉しか思いつかなくて、結局、拍手した。

 いやはは、と伊咲さんは頭を掻く。

「そんな素直に拍手されると、なんか照れるわー。人前で演奏するのも卒業試験ぶり……てそれそんなに前じゃないけど。でも試験官の人たち怖い顔してたからなー。こんなに気楽に弾いたのはほんとに久し振りだわー」

「なんて言うか……楽しそうでしたよ」

 あっははあ、と伊咲さんは笑う。よく笑う人だ。


「どう思う?」

 ふと、伊咲さんが問うてきた。え、と見返すと、伊咲さんは椅子に座ったまま膝の上で指先をこすり合わせている。

「演奏、ですか?」

「ううん、音楽教室。上手くいくと思う?」

 ああ、と俺はちょっと考えた。それから、大きく頷く。

「上手くいくと思いますよ。ピアノも凄いし、伊咲さんって人にものを教えるの好きそうですし」

「ほんと? ほんとにそう思う? よかったー!」


 本当に嬉しそうに笑って、伊咲さんは大きく伸びなどする。不安だったんだよね、と。

「まともな就職活動全然しないで、実家飛び出す勢いで来ちゃって。無理そうだったらってもう不安で不安で……って、あ、っはは、私なに言ってんだろ」

 照れるように笑う。そうだったんですか、と俺は応じた。いろいろ、事情はあるんだろうな、と。でも、

「上手くいくと思いますよ。本当に」

「ありがとう。――結構、自信ついてきたよ」

 よしよし、と頷きながら伊咲さんは自分の手を見つめながら握ったり開いたりして、弾みをつけて立ち上がった。


「よし! 頑張るぞぅ、まずはチラシ配りからだ! なんなら君も手伝ってくれる?」

「……まあ、いいですけど。手伝っても」

「ええ⁉ 本当? 助かるなあ、んじゃあお言葉に甘えて手伝ってもらうよ! ばしばし手伝ってもらうよ! あ、なんならさあ」

 どかどかと伊咲さんお手製チラシが俺の腕に積まれていく。いや、配るの明日なんですよね、と言う間もなく、伊咲さんは言葉を継いだ。

「君も習いに来てみる? 安くしとくよー、なんて」

「――え」


 習いに、と言われて一瞬なにを、と考えてしまったが、当然のこと、ピアノだ。

 うーん、俺が音楽をねえ……。

 似合わね。


「でも、面白そうですね」

「お、乗り気かい? いいよー、第一回は来週の今日、だから土曜日に開くから。気軽に来てくれたまいよー」

「でも俺、鍵盤もわかんないし楽譜も読めないんですけど、大丈夫ですか?」

「問題なーし。多分、皆そこから始めるからね」

 ふふ、と伊咲さんは跳ねた。ぐ、と親指を立てる。

「待ってるよ!」


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