答え
「――俺は」
視線を、上へ上げた。見えるのは天井。夕暮れに、茜色に染まりつつある天井だ。
「ずっと、考えてたんだ……俺が伊咲さんに抱いているのは、憧れなのか、それともそれ以外のなにかなのかって」
一番初めに指摘したのは、黒槇さんだった。年相応の好奇心と無邪気さをもって。
せんせーのこと好きなんでしょ。
「はっきりとした自分の夢を持っていて、逆境にも負けずに追い続けて、そして叶えていった伊咲さんの姿は、まぶしかった。自分の進路も明確に描けない俺からしてみれば、きっと憧れてもおかしくない人だと思ったんだ」
伊咲さんを思うとき、胸に抱く感情は、だからこそ憧れだと思った。
「でも、それも違うかもしれないって、言われて」
黒槇さんに。
全くもって、小学生は恐ろしい――小学生に振り回されている俺も大概なのかもしれないけれど。
「俺は、今まで人を好きになったことってなかったから、憧れと好意の違いがわからなかった。自分が憧れだと思っているこの感情が、もし純粋な憧れじゃなくて、好意なのだとしたら」
そうしたら、俺はどうしていたんだろう。今となっては、わからないけれど。
でもとにかく、どちらともはっきりできない俺は、悩んだ。
「そんなとき、戸塚に会って……教えてくれた。それは、憧れだって」
小さく、戸塚が息を詰める音がした。
「誰かにはっきり言ってもらって、ようやく俺は納得できた。俺が伊咲さんに抱いている感情は、好意ではなく、憧れなんだって。腑に落ちて、理解した。その答えに満足できた――できていた」
その後も、俺は憧れの感情をもって伊咲さんに接していた。
憧れる相手。
尊敬する人として。
「でも」
伊咲さんが留学するという話を聞いたとき、沸き起こった感情はなにかが違っていた。
「伊咲さんがいなくなる、もう会えなくなる。そう聞いたとき、凄く苦しくなったんだ。胸に深くて暗い、大きな穴が開いたみたいに……辛くなった。どうしたらいいのかわからなくて、どうしようもなくて、どうにかしたいのに、なにもわからなくなった」
ただ、恐れた。
伊咲さんが、俺の前からいなくなってしまうことを。
「俺が『カノン』をなにがなんでも弾かなきゃいけないと思ったのは、多分、そのやるせなさを埋めるためだったんだ。お礼とか、餞別とか、そんな細かいことじゃなく、憧れなんていう理屈もなしに、ただ、子供が駄々をこねるみたいに……虚しさを潰したくて、空白を埋めたくて、手近なものに当たり散らしていただけだった。でも」
俺は、く、とわずかに、左腕に力を込めた。無理をし過ぎたせいで、半ば壊れてしまったもの。
それでも、せめてもの引き換えに、俺が得たもの。
「気付いたんだ……ずっと、『カノン』を必死になって練習しているうちに。自分の胸に感じた空白がなんなのか」
寂しさは、寂しさだ。けれど、ただ別離を悲しむだけのそれではない。
もっと深く、重い。
「会えなくなったらと思うと凄く心細い。相手が自分をどう思っているのかと考えると苦しくなる。他に誰か好きな人がいたらと思うと、泣きたくなる」
俺は、戸塚を見た。
その震える瞳を、まっすぐに見返す。
かつて、戸塚に教えてもらったこと。
「自分の好きな誰かが、自分ではない誰かと一緒になってしまったらと思うと――自分の世界はきっと、終わってしまう」
戸塚は、なにも言わない。ただ唇を引き結んでいる。
だから俺は、続けた。
「俺も、そんな気がしたんだ」
きゅ、と胸の奥が痛んだ。
言葉にして確かめるのは、俺も初めてだったからだ。
「伊咲さんに会えなくなると思うと、凄く心細くなった。伊咲さんが俺のことをどう思ってるのかって考えると、息が詰まりそうになった。誰か好きな人がいるのかなって思うと、泣き出しそうになった。――伊咲さんがいつか、俺の知らない誰かと幸せになったらって思うと、俺の世界が終わるような気がした」
素直に、飾りなく、そう思う。
ああ――だから、今なら、俺は戸塚の気持ちがわかる。
「戸塚は、憧れだって言ってくれたけど……御免、違ったみたいだ」
自分で、見つけた。
自分で気付いた。
俺は、ちょっと気恥ずかしくなって、小さく笑って、戸塚に言った。
「俺、やっぱり伊咲さんのこと、好きみたいだ」




