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カノン(伊咲貴音音楽教室)  作者: FRIDAY
弐 貴女へ贈る音楽
39/57

答え

「――俺は」

 視線を、上へ上げた。見えるのは天井。夕暮れに、茜色に染まりつつある天井だ。


「ずっと、考えてたんだ……俺が伊咲さんに抱いているのは、憧れなのか、それともそれ以外のなにかなのかって」

 一番初めに指摘したのは、黒槇さんだった。年相応の好奇心と無邪気さをもって。

 せんせーのこと好きなんでしょ。


「はっきりとした自分の夢を持っていて、逆境にも負けずに追い続けて、そして叶えていった伊咲さんの姿は、まぶしかった。自分の進路も明確に描けない俺からしてみれば、きっと憧れてもおかしくない人だと思ったんだ」

 伊咲さんを思うとき、胸に抱く感情は、だからこそ憧れだと思った。


「でも、それも違うかもしれないって、言われて」

 黒槇さんに。

 全くもって、小学生は恐ろしい――小学生に振り回されている俺も大概なのかもしれないけれど。


「俺は、今まで人を好きになったことってなかったから、憧れと好意の違いがわからなかった。自分が憧れだと思っているこの感情が、もし純粋な憧れじゃなくて、好意なのだとしたら」

 そうしたら、俺はどうしていたんだろう。今となっては、わからないけれど。

 でもとにかく、どちらともはっきりできない俺は、悩んだ。


「そんなとき、戸塚に会って……教えてくれた。それは、憧れだって」

 小さく、戸塚が息を詰める音がした。

「誰かにはっきり言ってもらって、ようやく俺は納得できた。俺が伊咲さんに抱いている感情は、好意ではなく、憧れなんだって。腑に落ちて、理解した。その答えに満足できた――できていた」


 その後も、俺は憧れの感情をもって伊咲さんに接していた。

 憧れる相手。

 尊敬する人として。


「でも」


 伊咲さんが留学するという話を聞いたとき、沸き起こった感情はなにかが違っていた。


「伊咲さんがいなくなる、もう会えなくなる。そう聞いたとき、凄く苦しくなったんだ。胸に深くて暗い、大きな穴が開いたみたいに……辛くなった。どうしたらいいのかわからなくて、どうしようもなくて、どうにかしたいのに、なにもわからなくなった」


 ただ、恐れた。

 伊咲さんが、俺の前からいなくなってしまうことを。


「俺が『カノン』をなにがなんでも弾かなきゃいけないと思ったのは、多分、そのやるせなさを埋めるためだったんだ。お礼とか、餞別とか、そんな細かいことじゃなく、憧れなんていう理屈もなしに、ただ、子供が駄々をこねるみたいに……虚しさを潰したくて、空白を埋めたくて、手近なものに当たり散らしていただけだった。でも」


 俺は、く、とわずかに、左腕に力を込めた。無理をし過ぎたせいで、半ば壊れてしまったもの。

 それでも、せめてもの引き換えに、俺が得たもの。


「気付いたんだ……ずっと、『カノン』を必死になって練習しているうちに。自分の胸に感じた空白がなんなのか」


 寂しさは、寂しさだ。けれど、ただ別離を悲しむだけのそれではない。

 もっと深く、重い。


「会えなくなったらと思うと凄く心細い。相手が自分をどう思っているのかと考えると苦しくなる。他に誰か好きな人がいたらと思うと、泣きたくなる」

 俺は、戸塚を見た。

 その震える瞳を、まっすぐに見返す。

 かつて、戸塚に教えてもらったこと。


「自分の好きな誰かが、自分ではない誰かと一緒になってしまったらと思うと――自分の世界はきっと、終わってしまう」


 戸塚は、なにも言わない。ただ唇を引き結んでいる。

 だから俺は、続けた。


「俺も、そんな気がしたんだ」


 きゅ、と胸の奥が痛んだ。

 言葉にして確かめるのは、俺も初めてだったからだ。


「伊咲さんに会えなくなると思うと、凄く心細くなった。伊咲さんが俺のことをどう思ってるのかって考えると、息が詰まりそうになった。誰か好きな人がいるのかなって思うと、泣き出しそうになった。――伊咲さんがいつか、俺の知らない誰かと幸せになったらって思うと、俺の世界が終わるような気がした」


 素直に、飾りなく、そう思う。

 ああ――だから、今なら、俺は戸塚の気持ちがわかる。


「戸塚は、憧れだって言ってくれたけど……御免、違ったみたいだ」


 自分で、見つけた。

 自分で気付いた。


 俺は、ちょっと気恥ずかしくなって、小さく笑って、戸塚に言った。

「俺、やっぱり伊咲さんのこと、好きみたいだ」


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