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カノン(伊咲貴音音楽教室)  作者: FRIDAY
弐 貴女へ贈る音楽
38/57

戸塚の問い

 三学期が始まっているとはいえ、放課後に保健医がいるのかどうか五分五分のような気もしていたが、いざ行ってみると保健医は太平楽にお茶をすすっていた。窓からぼんやりと野球部の練習風景を眺めていた保健医は、突然やって来た血の気の失せた顔の俺にやや慌てたようだったが、さすがに慣れた様子で応対する。俺の腕を診て氷嚢を用意し、あてがいながら湿布を数袋取り出してくる。そうして落ち着いたところで、保健医は暫定的な診察結果を述べた。


「腱鞘炎だね」

 保健医はあっさりとそう言った。


「なにをしてたのか知らないけど、手を使い過ぎ。動かすほど悪化するから、しばらくは絶対安静。二週間くらいかな……利き手じゃないみたいだし、全く動かさなくても支障はないでしょ。念のために病院に行ってみてもいいけど、多分することは一緒。二週間くらい動かさなければ、多分腫れも引くから。いい?」

 絶対に、最低限以上は動かしちゃダメ。


 渡された湿布を小脇に挟み、保健室を出た俺は、氷嚢をあてがったままの自分の腕を見下ろして、深くため息をついた。

 腱鞘炎。

 二週間、だって?

 それはあまりにも……長すぎる。

 確かに俺は、ここしばらくのこと、今までにないくらいに両手を酷使し続けていた。左腕にはずっと、鈍い痛みが続いていた……右手は大丈夫なのは、利き手だからか。左手がダメになったのは、普段あまり使わないからか。慣れない作業に耐えかねたということか。


 どうであろうと関係ない。

 現状が全てだ。

 これでは、

「練習ができない……」

 小さく、こぼすように言った俺の言葉に、戸塚は視線を向けるも、なにも言わない。そのままふたりとも無言で、音楽室まで戻る。

 音楽室は出ていったときのまま、ピアノの蓋も開けられたままで、『カノン』の楽譜も途中で止まっている。


 俺は椅子に座った。けれど、弾けない。

 無理して弾こうとしても、左手がいうことを聞かない。拳を開閉するだけでも痛むのだ。演奏なんてできるはずもない。


 二週間。

 本当に保健医の見立てが正しくて、首尾よく二週間で復調できたとしても、そこから練習を再開して果たして間に合うだろうか。結局のところ、俺は一度として完全な通しを成し遂げていない。

 俺は必死で考えて、あれこれと検討し――そして、そのどうにもならなさにとうとう挫け、うなだれた。

 今できることは、もうなにもない。


「……ねえ、菅生」

 力なくうなだれる俺に、保健室からここまで一言も発さなかった戸塚が、遠慮がちに声をかけてきた。

「ひとつ、訊いてもいい?」

「………」

 声では応じないが、視線で促す。その、と戸塚は言った。

「どうして、そんなに必死になってるの?」

 そんなになってまで、と戸塚は俺の左腕を指して言う。

「音楽教室の先生――伊咲さん、だっけ? その人が留学することになったから、っていうのは聞いたよ。お世話になった先生に報いたい、先生のくれた目標をやり遂げてみせて、送り出したい……その気持ちはわかるよ。でも、本当にそれだけ?」

 本当にそれのためだけに、そんなに必死になってるの?

 俺の顔を覗き込むようにしながら、戸塚は問う。

「違うんじゃないかって、私は思う。礼に応える気持ちは凄く立派だけど、それだけでこんなに、身体を壊しちゃうくらい必死になんて、そう簡単になれるものじゃないと思う。――ねえ、菅生」

 教えて、と戸塚は言った。

「菅生が私に音楽室のピアノを借りたいって言ってきたとき、私、訊いたよね。ピアノを練習するのは、先生への憧れのためか、って。あのときは私が遮っちゃったんだけど」

 ねえ、と戸塚は言った。聞いたこともないほどに、弱々しい声で。

 俺は戸塚の顔を見た。


「菅生はその先生に、憧れているの?」


 戸塚は、見たことがないほど力ない表情をしていた。唇は震え、眉尻は下がり、瞳は小さく揺らいでいる。

 まるでなにかに、怯えるように。


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