それはきっと、こんな気持ち
「――――」
伊咲さんは憧れの人。
伊咲さんは大切な人。
いなくなると寂しい。
会えないと思うと辛い。
伊咲さんがいなくなってしまったあとで、俺がどういう風に生活を続けていけるのか、わからない。
怖い。
伊咲さんと会えなくなるのが、怖い。
行ってほしくない。
ずっと、ピアノを教えてほしい。
それが無理だということはわかっているし、引き留めてもいけないとは思うのだけれども、それでも。
「――――」
伊咲さんは、どう思っているのだろう。
泣いていた。
俺に話すことができなくて、怖かったと、泣いていた。
それでも、伊咲さんは行く。
俺を大切な人と言ってくれた。
その意味は、果たしてどれほどの意味だろう。
「――――!」
仮にどれほどの意味があったところで、新天地へ行って、伸び伸びと生きていれば、きっと俺なんかよりももっと大切な誰かに出会うだろう。両親との不和も軽減されて、不安や心残りがいくらかでも軽くなっているのなら、なおのことだ。
もし万が一俺が伊咲さんと再会することがあっても、きっと、伊咲さんの隣には俺の知らない誰かがいるのだろう。
それは。
それは――
「――――」
ああ……そうか。
ようやく、ようやくのこと、俺は理解した。
やっと、自分で自分に納得した。
憧れなのか、それ以外のなにかなのか。その答え。
胸の奥に空いた空洞の正体。
俺が伊咲さんに抱く感情の名前。
――もしも私の好きな人が、他の誰かが好きで、その誰かと一緒になっちゃったりなんかしたら……私の世界はきっと、終わっちゃう。
そう言っていたのは、戸塚だった。
俺も多分、今ならその意味がわかる。
それはきっと、こんな気持ちなんだ――




