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カノン(伊咲貴音音楽教室)  作者: FRIDAY
弐 貴女へ贈る音楽
32/57

なんのために?

 思っていた以上に、遥かに、俺の体力は落ちていた。

 小学生の頃なら休憩なしで五時間くらいは山頂と麓を往復していたものなのだが、たった一時間、数往復した程度でへばってしまった。現役小学生の黒槇さんはやっぱりガンガン滑っているし、戸塚や月地も、よく見れば月地の両親も子供そっちのけで楽しんでいた。皆、麓につくなりリフトに乗る、というかある程度降りてくるともうリフトへ向かっている感じだ。早々に疲れ切っているのはどうやら俺だけだった。

 ここで無理しても仕方がないので、俺はちょうど近くにいた月地に一声かけるとリフトへは向かわず、その向こうのロッジにまで降りて行った。スキー板とストックを決められた場所にまとめ、スキー靴のままよっこらよっこらと休憩所へ入っていく。軽くトイレで用を済ませてから自動販売機でホットココアを買い、子供が滑っているのであろう世間話に花を咲かす母親集団をすり抜け、あまり他に人のいない一角で腰を落ち着けた。


 ちょうど俺の着いた席からは、山の斜面が正面に見える。缶のプルタブを開けながら、吐息混じりに見上げる。

 山頂から滑り降りて来るあの小粒のどれかが、月地や、戸塚や、黒槇さんや月地の両親なのだろう。元気なものだ。しかし、まさか自分がここまで体力の落ちているものとは思わなかった。さすがにちょっと情けなくも思う。人間、弱くなるのは早いものだ。

「……あー」


 腰や膝に鈍く重い疲労を感じながら、深く吐息する。

 伊咲さんの留学を知った日からずっと張りつめていた気持ちが、多少だけれども緩められたような気もする。その分だけでも、月地の誘いに乗ってよかったようにも思う。


 けれど――こうして落ち着いて息をつくと、どうしても感じてしまう。

 考えてしまう。

 伊咲さんがいなくなってしまうという、そのことを考えるたびに、俺の胸の奥に生まれてしまうもの。

 それを初めて感じたときには、直視せず、逃げるようにしてしまったけれども、いくらか時間が経ってしまった今では、否応なしに考えさせられてしまう。

 どうしてそんな思いを抱いてしまうのか、わからないけれど。とにかく今は、それを埋め合わせるような意味でもとにかく『カノン』を弾かなければならない。

 そのために――

「あ、ここにいた」


 不意に斜め後ろからかかった声に、自分の中に埋もれていた俺は必要以上に驚いて振り返る。

 そこに、自分の缶コーヒーを持って立っていたのは誰あろう、戸塚だった。

 いっそ恣意的に思われてしまうほどに、タイミングよく。


「途中から見なくなったから月地に訊いてみたら、もうリタイアして休んでるっていうから」

「ああ……思ってた以上に体力が落ちててさ」

 隣いい? と言う戸塚に頷きを返しつつ、俺はわずかに身体の向きを戸塚の方へ変える。

「戸塚は、体力は大丈夫なのか?」

「大丈夫……のつもりなんだったけどね。さすがに、晴夏ちゃんと一緒に滑ってたらバテちゃったから、ちょっと休憩」


 そういう戸塚の頬は、運動や気温のせいだろう、桃色に上気していた。表情にも余計な力はなく、これまでどうしても存在したわだかまりのようなものも感じられなくなっている。

 ならば、今が好機なのだろうか。


「小学生って凄いねー、疲れ知らずみたいにどんどん行っちゃって。しかも結構上手に滑るから、何回も置いて行かれちゃったよ」

「黒槇さんは?」

「まだ滑ってる。さすがにひとりにしちゃいけないかなって、月地と交代してきたよ」


 それはむしろ、ふたりにとっていい状況になっているのかもしれないが……まあ、それはいい。

 タイミングが掴めない。


「菅生は、もう滑らないの?」

「いや……しばらく休んだら、また行くよ」さすがに回数券がもったいないし。「当分は動けそうにないけど」

 尻が根を張ったように椅子に落ち着いてしまっている。あはは、そっか、と戸塚は笑い、俺も曖昧に笑い返す。


 それから、なんとなく間が空いた。ふたりで見るともなしに雪山を眺め――今度こそ、俺は口を開いた。

「あのさ」

 うん、と戸塚がこちらへ視線を向けるのを感じつつ、俺は言う。

「頼みが、あるんだ」


 俺の様子から、なにか軽い内容ではないと悟ったのだろう、うん、とわずかに身構える空気になる。

 そんな戸塚に、俺は続けた。

「――ピアノ、貸してほしいんだ」

「ピアノ……?」


 一息には呑み込めていない戸塚に、俺はようやく視線を向けて、頷く。

「吹奏楽部の使ってる、学校の音楽室のピアノ。しばらく前に、ほとんど使ってる人もいないって話をしてたろ。それを、借りたいんだ」

「……どうして?」

 注意深く、上目遣いに戸塚は俺を窺う。その言葉に、俺は答える。

「伊咲さんが――俺の通ってる音楽教室の先生が、外国に留学することになったんだ」


 俺の言葉に、戸塚は無言のままながら驚いたようにわずかに目を見開いた。その視線を促しと受け取って、俺は続ける。

「時間がない――次の三月には行ってしまう。だから、それまでに弾けるようになりたい曲があるんだ」

「……パッヘルベルの『カノン』?」


 戸塚の言葉に、俺は頷く。いつか、話したことがあっただろうか。

 そう、『カノン』だ。

「伊咲さんに会えなくなる前に、『カノン』を弾き切ってみせたい。お礼とか餞別とか、そんな大げさなものじゃないけど、やり遂げたいんだ」


 それが、伊咲さんが俺に掲げた『目標』だから。

 通過目標であっても。

 それが、伊咲さんのくれたものだから。


「でも、練習したくても俺にはピアノがない。練習できる場所も、他に思いつかない。伊咲さんは引っ越しの準備とかもあるし、できれば伊咲さんには内緒で練習したいんだ」

 お礼や餞別とは違うと言ったけれど……やっぱり、そういうつもりもあるのかもしれない。

「だから……お願いしたい。戸塚にしか頼めないんだ」


 気まずさが解消された今だから、というわけではない。仮に大喧嘩をしている最中だったとしても、俺は頼まなければならなかっただろう。

 誰のためにというのなら。

 俺のために。


 戸塚は――じっと、俺の言葉を聞いたあと、小さく吐息した。

 なにか、重いものをひとつ下してしまったかのような、そんな吐息だった。

 そして、視線を上げる。


「……わかった。頼んでみる。――でも、ひとつ教えて」

「なに?」

「それは、その先生への憧れのため?」


 戸塚の問いは、俺にとって思いがけないものだった。

 それは、と答えかけた言葉が止まる。

 俺が伊咲さんに『カノン』を演奏して見せたいのは、伊咲さんへの憧れのためか。

 その戸塚の問いは、俺の自問は、なぜか俺の、伊咲さんがいなくなるということに対して生まれた胸の奥の何かに、強く響いた。

「……それは」


 言葉を続けられない俺の様子を無感情な目で見ていた戸塚は、やがて緩く首を振った。

 諦めたように。


「わかった、いいよ。答えてくれなくていい――顧問の先生に訊いてみるけど、多分大丈夫だと思う。ただし、吹奏楽部で練習に使う日と、正月三が日の学校に入れない間、そのときは無理だよ」

「わかった」

「明日からすぐ?」

 戸塚の問いに、俺は強く頷いた。


「よろしく頼む」

「……わかったよ」


 ふ、と戸塚は力なく笑んだ。そして一息に缶コーヒーを呷ると、すっくり立ち上がる。

「私はもう行くね。菅生も、体力戻ったらもう少しくらい滑りなよ。折角来たんだから」

 うん、という俺の頷きを見て、戸塚は背を向けて歩き始めた。気まずさや、緊張感はない――そういったものがごっそりと抜け落ちてしまったかのような、無気力な雰囲気。

 けれどそのときの俺は、戸塚の纏う空気を理解することなんてできなかった。


 『カノン』を練習できる。

 それが、今の俺の全てだ。


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