いなくなってしまう前に
伊咲さんが留学するという話を聞いてから、二学期の終業式を終えるまで、自分がどのように過ごしていたのか、完全に思い出せないくらいにぼんやりと時間だけが過ぎていった。
伊咲さんがいなくなる。その衝撃は、どうやら俺にとって相当に大きいものであったらしい。漫然と最後の授業を聞き、漠然と式典が進行していくのを眺め、上の空のまま月地と冬休みに遊ぶ約束をした。
整理がつかない。追いつかない。自分の中で落ち着かない。
置き所がない――すっぽりと抜け落ちてしまったかのように。
気付けば今日で、年内のレッスンを終えていた。
「それじゃあ、また来年、だね」
「……ええ」
ぎこちない挨拶。残り少ない伊咲さんとのレッスンを空費してしまっているのに、そのことに対する焦りすら、麻痺してしまっている。
ただ、ぎくしゃくとしたものだけが残ってしまっている。
また、来年。
けれどその来年はきっと、酷く短い。
遠からず、また、と言えなくなる日が来る。
お元気で。
そう言って、それが最後になってしまう日が。
「…………」
これではいけない。そう思うのに、なんの言葉も、なんの行動も出てこない。
引き留める?
ダメだ。伊咲さんが夢を叶えることは、俺だって心底願うことなのだ。憧れる人が成功していく様は――憧れ?
あこがれ。
あこがれって、なんだった?
「あの――菅生くん」
黙々といつものように靴を履いていく俺に、伊咲さんが声をかけてきた。
はい、と振り返って、伊咲さんを見る。
「なんでしょう」
「いや、その……えっと」
どんどん声の調子が落ちていく。力が失われ、視線があちこちを彷徨う。そして、
「……ううん、なんでもない。それじゃあ、また来年――よいお年を」
「はい。伊咲さんも」
よいお年を。
そう返して、俺は外へ出た。
初雪がいつだったのかは知らない。けれど気が付けば、すっかり雪が積もっていた。
「…………」
は、と吐いた息は、白い煙になって宙に広がり、消えた。
あの伊咲さんには、見覚えがある。
見覚えどころか……忘れてはいけないだろう、というくらいの。
なにかを俺に言おうとして言えない伊咲さんを見るのは、二度目だ。また、伊咲さんは言えないでいる。
なにを。
けれど――俺にそれを問う気力は、それを促す体力は、もう残っていなかった。
これ以上、なにを重ねようというのだろう。
もう俺は、堪えられる気がしない――
「――ん」
伊咲さんの家の出口、門の外に、なにかが揺らめいた。ここからは塀に重なっていて見えないが、誰かがいるようだ。次の時間の子にしては早い。だが恐らく身長は小柄な誰かだ。
さして深い興味もなかったが、どのみち帰るにはそこを通るしかない。じゃこじゃこと雪に足跡をつけながら門に差し掛かったとき、ちらっと見てみると、そこにいたのは、
「――あ、黒槇さん」
俺の声に、伊咲さんの表札に全身で見入っていた黒槇さんが顔を上げた。
俺の顔を見て、にっと笑う。
「あ、おにーさんだ。レッスン終わり?」
うん、と俺は頷く。小学生もとっくに冬休みだろう。雪遊びでもしていた帰りなのか、スキーウェアのように厚い上下に、毛糸の帽子、厚手の手袋をしている。
「なにしてるの?」
「んーっとね、今学校で遊んで帰る途中なんだけどね、せんせーの住所、そういえば知らないなって思って」
「住所? なんでまた住所」
「せんせーに年賀状出すんだよ。おにーさんは出さないの?」
ああ、年賀状か……そういえば、全く考えていなかった。
「まあ、もともとそんなにもらわないし」
だから、大して送る数もない。黒槇さんは、寂しいね、と笑った。
「それじゃ、おにーさんにも出してあげようか」
「うん、そうだね。くれたら出すよ……それで、どうして黒槇さんは、表札と睨めっこ?」
「いや、だって」じぃっと表札に見入りながら、黒槇さんは言う。「今書くもの持ってないから、家まで覚えておかなきゃ」
「ふうん」それは、大変だな。「スマートフォンは、今日は持ってないの?」
訊くと、持ってるよ、と伊咲さんはポケットからスマートフォンを抜き出した。なんだ、あるんじゃん。
それが? といった感じで俺を見上げる黒槇さんに、俺はこともなげに言う。
「それじゃあ、それで写真撮るとか、メモ取るとかした方がいいんじゃない?」
「あ、そっかあ。おにーさん頭いい!」
どうやら全く思いもよらなかったようで、黒槇さんは歓声を上げてカメラのアプリを立ち上げた。別に頭がいいというわけではないのだけれど、まあ気付きに関しては年相応なのか。
と、表札にカメラの焦点を合わせようと前後している黒槇さんが、そういえば、と言った。
「おにーさん、あれから『カノン』はどんな感じ?」
「……『カノン』?」
「うん、『カノン』。少しは弾けるようになった?」
『カノン』。
パッヘルベルの『カノン』。
「……忘れてた」
「え、なんで?」
「いや、その」伊咲さんのことで「忙しくて」
「ふうん……じゃあ、いいの?」
かしゃ、と音を立ててアプリのシャッターを切りながら、黒槇さんは言う。
「せんせーが外国に行っちゃったら、おにーさんもう『カノン』をせんせーに聴かせてあげられないよ。もしかしたら、ピアノを弾くこともなくなっちゃうかも……いいの?」
それでいいの、と黒槇さんは邪気なく言う。撮ったばかりの写真を開いて、写りを確かめながら。
「まあ、おにーさんがいいなら、いいんだろうけど……時間もないしねー。三ヶ月じゃ、ちょっと時間も足りないのかな」
黒槇さんにどんな意図があってそんなことを言ったのかは、わからない。きっと深い意図や考えがあってのことではなく、単純に思ったことを言っただけだろう――けれど。
『カノン』。
『カノン』。
『カノン』だ。
弾かなくては――ピアノを。
『カノン』を。
「――いや」
「え?」
無意識に、低く鳴った俺の声を拾って、黒槇さんがこちらを見た。
「なに?」
「よくない」
俺は言った。黒槇さんに――いや、自分自身に。
「よくない――弾かなきゃ」
俺は繰り返す。刻み込むように。
「弾かなきゃ。『カノン』を。伊咲さんが行ってしまう前に――」
伊咲さんがいなくなってしまう前に。
「でも、おにーさんはピアノ持ってないんでしょ? 練習したくても、せんせーのところじゃないとピアノがないから練習できないじゃん」
その通りだ。
けど、いや――ある。
ひとつだけ、当てがある。




