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カノン(伊咲貴音音楽教室)  作者: FRIDAY
弐 貴女へ贈る音楽
28/57

いなくなってしまう前に

 伊咲さんが留学するという話を聞いてから、二学期の終業式を終えるまで、自分がどのように過ごしていたのか、完全に思い出せないくらいにぼんやりと時間だけが過ぎていった。

 伊咲さんがいなくなる。その衝撃は、どうやら俺にとって相当に大きいものであったらしい。漫然と最後の授業を聞き、漠然と式典が進行していくのを眺め、上の空のまま月地と冬休みに遊ぶ約束をした。


 整理がつかない。追いつかない。自分の中で落ち着かない。

 置き所がない――すっぽりと抜け落ちてしまったかのように。

 気付けば今日で、年内のレッスンを終えていた。


「それじゃあ、また来年、だね」

「……ええ」


 ぎこちない挨拶。残り少ない伊咲さんとのレッスンを空費してしまっているのに、そのことに対する焦りすら、麻痺してしまっている。

 ただ、ぎくしゃくとしたものだけが残ってしまっている。

 また、来年。

 けれどその来年はきっと、酷く短い。

 遠からず、また、と言えなくなる日が来る。

 お元気で。

 そう言って、それが最後になってしまう日が。

「…………」


 これではいけない。そう思うのに、なんの言葉も、なんの行動も出てこない。

 引き留める?

 ダメだ。伊咲さんが夢を叶えることは、俺だって心底願うことなのだ。憧れる人が成功していく様は――憧れ?


 あこがれ。

 あこがれって、なんだった?


「あの――菅生くん」

 黙々といつものように靴を履いていく俺に、伊咲さんが声をかけてきた。

 はい、と振り返って、伊咲さんを見る。


「なんでしょう」

「いや、その……えっと」

 どんどん声の調子が落ちていく。力が失われ、視線があちこちを彷徨う。そして、

「……ううん、なんでもない。それじゃあ、また来年――よいお年を」

「はい。伊咲さんも」


 よいお年を。

 そう返して、俺は外へ出た。

 初雪がいつだったのかは知らない。けれど気が付けば、すっかり雪が積もっていた。

「…………」


 は、と吐いた息は、白い煙になって宙に広がり、消えた。

 あの伊咲さんには、見覚えがある。

 見覚えどころか……忘れてはいけないだろう、というくらいの。

 なにかを俺に言おうとして言えない伊咲さんを見るのは、二度目だ。また、伊咲さんは言えないでいる。


 なにを。


 けれど――俺にそれを問う気力は、それを促す体力は、もう残っていなかった。

 これ以上、なにを重ねようというのだろう。

 もう俺は、堪えられる気がしない――


「――ん」

 伊咲さんの家の出口、門の外に、なにかが揺らめいた。ここからは塀に重なっていて見えないが、誰かがいるようだ。次の時間の子にしては早い。だが恐らく身長は小柄な誰かだ。

 さして深い興味もなかったが、どのみち帰るにはそこを通るしかない。じゃこじゃこと雪に足跡をつけながら門に差し掛かったとき、ちらっと見てみると、そこにいたのは、

「――あ、黒槇さん」


 俺の声に、伊咲さんの表札に全身で見入っていた黒槇さんが顔を上げた。

 俺の顔を見て、にっと笑う。

「あ、おにーさんだ。レッスン終わり?」

 うん、と俺は頷く。小学生もとっくに冬休みだろう。雪遊びでもしていた帰りなのか、スキーウェアのように厚い上下に、毛糸の帽子、厚手の手袋をしている。


「なにしてるの?」

「んーっとね、今学校で遊んで帰る途中なんだけどね、せんせーの住所、そういえば知らないなって思って」

「住所? なんでまた住所」

「せんせーに年賀状出すんだよ。おにーさんは出さないの?」

 ああ、年賀状か……そういえば、全く考えていなかった。

「まあ、もともとそんなにもらわないし」

 だから、大して送る数もない。黒槇さんは、寂しいね、と笑った。


「それじゃ、おにーさんにも出してあげようか」

「うん、そうだね。くれたら出すよ……それで、どうして黒槇さんは、表札と睨めっこ?」

「いや、だって」じぃっと表札に見入りながら、黒槇さんは言う。「今書くもの持ってないから、家まで覚えておかなきゃ」

「ふうん」それは、大変だな。「スマートフォンは、今日は持ってないの?」

 訊くと、持ってるよ、と伊咲さんはポケットからスマートフォンを抜き出した。なんだ、あるんじゃん。

 それが? といった感じで俺を見上げる黒槇さんに、俺はこともなげに言う。

「それじゃあ、それで写真撮るとか、メモ取るとかした方がいいんじゃない?」

「あ、そっかあ。おにーさん頭いい!」


 どうやら全く思いもよらなかったようで、黒槇さんは歓声を上げてカメラのアプリを立ち上げた。別に頭がいいというわけではないのだけれど、まあ気付きに関しては年相応なのか。

 と、表札にカメラの焦点を合わせようと前後している黒槇さんが、そういえば、と言った。


「おにーさん、あれから『カノン』はどんな感じ?」

「……『カノン』?」

「うん、『カノン』。少しは弾けるようになった?」


 『カノン』。

 パッヘルベルの『カノン』。


「……忘れてた」

「え、なんで?」

「いや、その」伊咲さんのことで「忙しくて」

「ふうん……じゃあ、いいの?」


 かしゃ、と音を立ててアプリのシャッターを切りながら、黒槇さんは言う。

「せんせーが外国に行っちゃったら、おにーさんもう『カノン』をせんせーに聴かせてあげられないよ。もしかしたら、ピアノを弾くこともなくなっちゃうかも……いいの?」

 それでいいの、と黒槇さんは邪気なく言う。撮ったばかりの写真を開いて、写りを確かめながら。

「まあ、おにーさんがいいなら、いいんだろうけど……時間もないしねー。三ヶ月じゃ、ちょっと時間も足りないのかな」


 黒槇さんにどんな意図があってそんなことを言ったのかは、わからない。きっと深い意図や考えがあってのことではなく、単純に思ったことを言っただけだろう――けれど。


 『カノン』。

 『カノン』。

 『カノン』だ。

 弾かなくては――ピアノを。

 『カノン』を。


「――いや」

「え?」

 無意識に、低く鳴った俺の声を拾って、黒槇さんがこちらを見た。


「なに?」

「よくない」

 俺は言った。黒槇さんに――いや、自分自身に。

「よくない――弾かなきゃ」


 俺は繰り返す。刻み込むように。

「弾かなきゃ。『カノン』を。伊咲さんが行ってしまう前に――」

 伊咲さんがいなくなってしまう前に。


「でも、おにーさんはピアノ持ってないんでしょ? 練習したくても、せんせーのところじゃないとピアノがないから練習できないじゃん」


 その通りだ。

 けど、いや――ある。

 ひとつだけ、当てがある。


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