どう受け止めればいい
「――留学することになったの」
あまりの衝撃に二の句が継げなくなっている俺に、ぽつぽつと伊咲さんは語り出した。けれどもまた、視線は膝の上で揺れる指へ落ちている。
留学?
「スイスに、ね。スイスの音楽院に、留学できることになったの。こっちの大学にいたときに師事してた教授の縁で……ヨーロッパでも一流の音楽大学でね。卒業することがヨーロッパで一番難しいんだけれど、その代わり授業料がもの凄く安かったり、生活面でもある程度までなら援助してくれて、私みたいに資金のない人でも学びやすいところなんだ」
それは……驚くほど、伊咲さんに合った話だろう。それにヨーロッパだ。クラシックの本場。
そこで音楽を勉強できるとなれば、それ以上に嬉しいことはない。
「実家との関係も、最近ちょっとだけよくなったの」
伊咲さんは言う。
「両親と不仲になった後でも、こっそり仲良くしてた妹が、いろいろとしてくれて……少しだけ、改善されたんだ。向こうに行くまでの資金も足りない分だけだけど、貸してくれることになったの」
輪をかけていい話だ。大好きな音楽を本場で学ぶことができる。両親との仲もよくなった。
喜ばしい限りじゃないか。
それなのになぜ、俺は一緒に喜ぶことができないんだろう。
どうして俺の心は冷え切ったままなのだろう。
「……言葉、は通じるんですか」
ようやく辛うじて口に出したのは、そんな我ながらどうでもいいようなことだった。うん、と伊咲さんは頷く。
「向こうはドイツ語だけど、ドイツ語は大学でも勉強してたから、日常会話くらいは大丈夫。専門的な話とかになるとさすがに難しいけど、それは行ってからでも間に合うから」
「住むところは。あるんですか」
伊咲さんの答えが終わるのを待たず、矢継ぎ早に俺は問う。
なにかを訊き続けないと、伊咲さんがどんどん遠ざかっていってしまうような恐怖が、俺を押す。
「それも、もう目星はついてるの」
俺の焦燥と対照するように、伊咲さんは落ち着いていた。
「大学から結構近いところにある学生アパート。さすがに下見とかはできてないけど、知り合いが住んでたことがあるって、話は聞いてる」
「この家は、どうするんです」
「引き払うしかない、よね……もともと借家だったから、手続きは問題ない」
「その、ピアノは」目の前にあるピアノに手を置いて、俺は問う。「ピアノはどうするんですか。持っていくんですか」
「ピアノは……持っていくことは、さすがにできないから」
伊咲さんは、困ったような表情でピアノを見る。
「売るくらいしか、ないかな」
「そんな……」
ローンが残ってるんじゃないですか、家具は全部持っていくんですか、引っ越しちゃんとできるんですか、部屋の片づけできるんですか――どんどん大事なところから離れていく。核心から、決定的なところから遠ざかっていく。
俺は、必死でなにかを探して、そのなにかとはなんなのかもわからないまま、ただ焦りのままに伊咲さんを見て――息を止めた。
頬を伝い、顎から落ちる雫は、涙か。
伊咲さんは、泣いているのか。
「――御免、ね」
ずっと、震えないように努めていたはずの声を揺らし、伊咲さんはその言葉を口にする。
「御免ね、ずっと言えなくて」
そんな、と思うも言葉に繋がらない。
どうして伊咲さんが泣くんだ。
どうして伊咲さんは泣いているんだ――
「言わなきゃって思ってたのに、菅生くんには言わなきゃって、一番初めに言わなきゃって、思ってたのに……言えなかった。怖かったんだ。菅生くんに、なんて言われるのか、菅生くんがどんな顔をするのか……怖かった」
懺悔するように、伊咲さんは言う。
涙を拭うこともせず、肩を震わせて。
「菅生くんは、私の中で一番大切な人になってたから」
それは、どういう意味なのか。
俺はその言葉をどう受け止めればいい。
「こっちに来て初めて会ったのが、菅生くんで。親と喧嘩して、勘当も同然に飛び出して来て、あれこれ全部ひとりでなんとかして、やっと、ずっとやりたかった音楽教室開けるところになって。でもずっと、ずっとずっと不安だった。失敗したらどうしよう、上手くいかなかったら、今さら実家にも戻れないし、就職しようにも時期が最悪で行く当てもないから――そんなときに、菅生くんに会った」
伊咲さんは言う。俺は、黙って聞くしかない。そんなに不安な思いを抱えていただなんて、俺は知らなかった。
「近所に挨拶しなきゃって回っても、どこの家も人が出てきてくれなかった。時間帯が時間帯だったから誰もいないのは普通かもしれないけど、明らかに誰かがいる家でも誰も出て来てくれなくて。それで潰れそうになっているときに、やっと人が出て来てくれた――菅生くんが、来てくれた」
思い出す。
暑い夏の日に、汗だくでやって来た伊咲さん。
「菅生くんが手伝ってくれるって言ってくれたとき、もの凄く嬉しかったの。本当だよ。なんと言うか、遭難してたときにやっと人に会えた気分というか、人の温かさにようやく触れられたみたいな感じで……舞い上がって、いろいろ恥ずかしいところも見せちゃったけど」
ふふ、と小さく照れるように笑う。
俺があのとき手伝いを申し出たのは、決して全くの善意というわけではなかったと思う。大なり小なりの下心めいたものだって、あったはずだ。だから、そうやって感謝されるのは、俺の身に合わないような気もしてしまう。
「しかもその後も菅生くんは、音楽教室にも来てくれた。自分でも信じられないくらい嬉しかったんだよ。小さい子ばかりに囲まれていると、自分はちゃんと教えられてるのかなって何度も不安になるんだけど、菅生くんが頑張ってくれるお陰で自信が持てた。私はまだ大丈夫なんだって思えた」
俺は、確かに頑張っていたけれど。でもそれもやっぱり、純粋な動機じゃない。
「教えるのは、楽しかった」
伊咲さんは言う。
「子供たちにピアノを教えるのも楽しかったし、子供たちが楽しそうに弾いてくれる姿を見るのも、学校であったいろんなことを話してくれるのを聞くのも、凄く楽しかった。ずっとこうして続けていきたいと、そう思った」
「……それなら」
「でも」
思わず口をはさんだ俺を遮るようにして、伊咲さんは言葉を重ねた。
「でもね。留学の話が来たとき――思っちゃったの。プロになりたいって」
身を切るように、血を吐くように。そんな激情を静かに込めて、伊咲さんは言った。
「私、プロのピアニストになりたい。音楽教室も続けたいけど、ピアニストにだってなりたい。学生のときには諦めてたけど、もう一度目指せる。そしてこれが、最後のチャンス――そう思うと、私はもう諦められなくなった」
もう一度だけ、ピアニストを目指したかった。
その言葉とは裏腹に、伊咲さんの声からは力が失われていた。
「留学したからといって、必ずプロになれるわけじゃないけれど、でも道は開ける。だから――でも、菅生くんになんて言われるんだろうって思うと、怖くなった」
言えなかった。
「菅生くんが応援してくれれば、私はどこででも頑張っていける。そう思える。でももし反対されたら、非難されたら私は――ずっと私の支えにしていた菅生くんが離れていってしまったら、私がどうなってしまうのか、考えることも恐ろしかった」
だから、言えなかった。
御免、と伊咲さんは言う。
御免、御免と謝罪を重ねる。
どれだけ謝っても決して許されない。そう思い込んでいるかのように。
「御免ね、菅生くん、御免ね……勝手に支えにして、勝手に怖がって。いきなりやって来て、誘っておいて、またいきなりいなくなって……御免」
本当に、御免なさい、と。
謝られる俺は……どうしたらいいんだ。
なんて応えればいいんだ。
どんな言葉をかければ、いいんだよ。
「……そんなこと、ないです」
結局、掠れた喉から出てきたのは、そんな言葉だった。
「俺が、伊咲さんが夢を追い続けることを、非難するわけがないですよ。凄いことです。プロのピアニストになるなんて。それなら俺は、将来のピアニストに習ったわけですから、むしろ誇らしいくらいですよ。ただ、」
ただ――
言葉が、詰まった。
ただ俺は、伊咲さんにいなくなってほしくないんです。
「寂しく、なっちゃう、なあ、って」
俺の言葉はぶつ切りになった。
どれが本心なのか、わからない。
けれど、まっすぐに、いなくなってしまうのが嫌だ、なんて、そんな子供じみたような、飾りのない思いを告げることは、どうしてもできなかった。
伊咲さんがいなくなる。
そのことを、認めたくない。
だから、
「応援、しますよ。勿論。しないわけないじゃないですか」
自分の声が、酷く空虚に聞こえた。
「外国になんて行っちゃったら、さすがに連絡取ることなんてできないですけど……大丈夫です」
なにが大丈夫だというのか。
混乱したまま、認めないまま、俺は――問う。
認めてしまうしかないことを、問いかける。
「それで――いつ、行っちゃうんですか」
伊咲さんの表情は、よくわからない。困ったような色は残っているものの、他の感情を読み取れない顔だった。
俺が読み取ることを拒否しているだけなのかもしれないが。
その伊咲さんが、答える。
「すぐじゃ、ないんだ。次の三月に向こうに行って……学期が始まるのはそれよりずっとあとなんだけれど、クラス分けの試験とか、いろいろあってね。早いうちに入っておくの」
「次の……三月ですか」
今は十二月だ。
つまりは、あと三ヶ月。
けれど……年末年始はさすがに、レッスンは休みだろうし。
となると――ともすれば、伊咲さんと会う機会はもう十数回もない。
あと、たったそれだけ?
漠然と、もっと続くと思っていた。俺が受験シーズンに入って、音楽教室をやめてしまうことになったとしても、一介の隣人として、多少なりとも続いていくものと思っていた。
それが、たったあと三ヶ月に――
「…………」
ふ、となにかが抜けていく感覚があった。
なにかが、どこかからか、しかし確実に。
それがなんなのか、そしてその結果どうなってしまっているのか、それを自覚してはいけないと、それだけをはっきりと思った。
少なくとも、今は。
「――そ、それじゃあ、これからのレッスンは大事にやっていかないとダメですね。弾けるところまで弾けるようになっていたいですし」
「あ……うん」
よそよそしくならないように、わざとらしくならないように、できるだけいつもの調子に努めて言ったのだけれど、どうなんだろう。伊咲さんは俺の言葉に頷いて、ようやく頬の涙を手の甲で拭った。
「今日は……今日はもう、帰りますね。あ、荷造りとかするときには、声をかけてもらえればまた手伝いますよ」
そんなことを言って、俺はコップのお茶を一息に飲み干し、立ち上がった。伊咲さんは無言で頷き、俺からコップを受け取って立ち上がる。
楽譜を鞄にしまって、手に提げ、玄関へ向かう。俺も伊咲さんもなにも言わない。
俺が靴を履いて、踵から手を離し、半身で振り返る。
俺の目の前、手を伸ばせば届く距離に、伊咲さんは立っている。
なのに――遠い。
手が届くだなんて、思えない。
「では――また」
俺は口を開いて、しかしなにも気の利いた台詞も思いつけず、結局いつもの別れになった。うん、と伊咲さんは頷き、胸の前でそっと小さく手を振る。
「またね」
その言葉に送られて、俺は伊咲さんの家を出た。後ろ手に戸を閉める。すっかり冬になっている外は酷く寒く、吐く息も白く曇る。
では、また。
一体あと何度、そんな言葉を交わせるのだろう。
そのことを思うとき、なにかが胸の内に生まれ、しかしそのなにかをなんと呼べばいいのか、俺にはまだわからない。




