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カノン(伊咲貴音音楽教室)  作者: FRIDAY
弐 貴女へ贈る音楽
26/57

先に訊いて

 伊咲さんだって悩んでいる。俺だけじゃない。だから今は割り切って練習をしよう――そういう思いで、必死で楽譜に向かっていったものの、ではまともな練習をできたのかといえば、全くもって言い難い。同じところで何度もミスる。そうしている間にはさっきまで間違わなかったところで突っかかる。ミスの修正は力ずくだ。とてもとても、身になったと言えるものじゃない。


 けれどとにかく、時間は経った――三十分。俺の練習時間を、終えた。

 全然成果になっていないのに、疲労感はこれまでで随一だった俺がピアノの前に座ったまま脱力していると、いつの間にか奥へ行っていた伊咲さんが、いつものようにお茶のボトルとコップを持って戻ってきた。コップに注いで、俺に手渡してくれる。俺はそれを受け取って、一口飲んだ。そのお茶はよく冷えていたけれども、一心不乱に弾き散らした後では、火照った喉に心地よかった。


 けれど、いつまでも浸っているわけにはいかない。

 本題だ。


「――あの、伊咲さん」


 俺は切り出す。切り出すものの……あとが続かない。

 なにを、どう問えばいい?


 伊咲さんは、俺に言っていないことがあるんじゃないですか。

 それじゃあまるで、責めているみたいじゃないか。


 困り切って、俺は伊咲さんの顔を見た。

 目が合った。


 伊咲さんもまた、俺を見ていた。それも、俺以上にまっすぐにだ。困ったような弱々しい表情はそのままだけれど、その瞳は凪いでいた。

 力みなく、静かで、綺麗な瞳だった。


「訊きたいことが、あるんです」

 結局、俺の口から絞られるようにして出てきたのはそんな言葉だった。これではダメだ、一歩も前に進んでいない――けれど、伊咲さんは俺の言葉を聞いて、頷いた。

「……私も、菅生くんに話さなければいけないことがあるの」

 静かに、伊咲さんは言う。でも、だから、と。


「菅生くんから、先に訊いて」


 その促しは、伊咲さんのどんな思いを含んだものなのか。

 俺は問う。


「伊咲さん――音楽教室、やめるんですか」


 まるで自分の声じゃないみたいだった。

 改めてはっきりと言葉にしたことで、それがどれほど自分の中で大きなことなのか、そしてどれほどあってほしくない現実なのかを自覚する。けれど、伊咲さんは。


「うん」


 頷いた。


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