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まずはいつも通りに
いつもの部屋、ピアノの置かれた部屋に入るまで、俺も伊咲さんも一言も発しなかった。問いたい俺は当然のこと、伊咲さんの方も、俺がそれについて言及したいということは感じ取っているのだろう。
けれど、伊咲さんは俺になにも問う暇を与えてはくれなかった。
「――それじゃあ、菅生くん」
ピアノを前にして振り返って、伊咲さんは俺に言った。
「今日のレッスンをしようか」
口角を持ち上げる。けれどその表情は、とてもじゃないが微笑んでいるとは言い難かった。あまりにも、無理が見えてしまっている。
「……あの、伊咲さん」
訊くなら、今しかない。そう思って、意を決して問おうとした俺を、しかし伊咲さんは遮る。
「菅生くん」
語調は決して強くはない。それなのに、不思議と有無を言わさぬ雰囲気。
俺に背を向けて、指先でそっとピアノを撫でる。その背はいつもよりもずっと儚く見えた。
「今は、練習をしよう――話は、それから」
わかっているのだ。伊咲さんだって。俺の問いたいことも、それからきっと、伊咲さんが俺に言わなければとずっと思っていたであろうことを、いよいよ言わなければならないということを。
「――きっと、長くなるから」
そっと、吐息のように、落としてしまうようにそう言った。
伊咲さんの表情は、見えない。




