恐怖
黒槇さんが俺になにを言いかけて、俺がなにを知らなかったのか。それは実のところ、それからほどなくして知れる。
ただこのときの俺は酷く戸惑って混乱していたから……伊咲さんのところへ向かうまでの間も、あれこれと考えを整理しようとしていた。
黒槇さんが、恐らく全くなんの意図もなく、こちらも既に知っているという前提のもとで言ったこと。
――せんせーがいなくなったら。
伊咲さんがいなくなる? それは……どういうことだ。
そして伊咲さんは、恐らくそれに関係するなにかしらのことを、俺に伝えていない。
けれど、もしも状況証拠がそれだけなら、俺の考え過ぎだとか、黒槇さんがなにか勘違いをしているんだろうだとか、そう落ち着くこともできた。いろいろとかなりしっかりした子ではあるけれど、やっぱりまだ小学生だもんね、と。思わず言ってしまった、という様子で焦って逃げ出していってしまったことも、同じ理由で強引に解釈できないこともない。
けれど、もうひとつ、ある。それは俺が気付いていたことで、不思議に思っていたことだ。
ここ最近の、伊咲さんの様子。
まるでなにかを言いあぐねているような……すっきりしない表情と、素振り。
なにかを俺に言おうとして、やっぱりやめる。そんなやり取りがあったのは、一度や二度ではない。
伊咲さんは、なにかを俺に伝えようとして、躊躇っている。
その伝えようとしていることとは、なんだ。
整理しようと試みたところで、具体的な事柄がまるでわかっていない状態だ。考えをどこに転がしたところで、俺の勘違いや考え過ぎだと落とし込む余地は残っている。
ただ――恐怖だけは、克明だった。
もしも両者が合致してしまうのだとしたら。
最悪の状況へ至ってしまうのだとしたら――
すっきりしない思いを右へ左へ転がしているうちに、気が付けば俺は自分の家の前にまで帰ってきてしまっていた。腕時計を確認すると、俺のレッスンの開始までほとんど時間がない。もともと余裕のある時間設定でもなかったけれど、今日は少しゆっくり歩き過ぎていたようだ。考え事の内容が内容なのだから、仕方ないと言えば仕方ないけれど――ともかく俺は財布から出した鍵で家を開け、鞄を玄関に放り投げ、いつもレッスンに行くときに持っていっている方のトートバッグを引っ掴むとまた戸に鍵をかけて隣家へ向かった。
自分の家に入るときにも気付いていたが、伊咲さんの家の前には軽自動車が一台停まっていた。珍しいことだが、初めて見るわけではない。俺の前の時間――といっても、伊咲さんがひと眠りしようかと考えてしまえるくらいには前だが――にレッスンを受けている子の迎えの車だ。パートタイマーのお母さんだそうで終わりの時間にぴったり迎えに来れることはなかなかないそうだが、それでも俺の時間ぎりぎりにまで遅れて来ているというのは本当に珍しい。こういう日もあるのだろうと思いながら車の脇を抜けて玄関口に向かうと、そこにはそのお母さんと、子供と、伊咲さんが立って話し込んでいた。子供は母親の手に掴まりながら暇そうにぶらぶらしているが、母親はまだ動く様子はない。伊咲さんはというと、その母親の陰になってどんな表情をしているのかは見えなかった。
ただ、近づいていけばその話していることはもれ聞こえてくる。
「――びっくりしましたよー。前々から準備はしていらしたのでしょうけれど、結構急な話でしたし」
「本当に、すみません」
「いや、別に責めているわけじゃなくってね。だって凄いことじゃないですか。言ってみれば栄転でしょう? 仕方ないですよ。正直なところを言えば、もうちょっとうちの子に教えてほしかったんですけどねえ……」
「すみません……私も、そうしたい気持ちは大きいのですけれど……」
「うちの子ったら先生のこと大好きで。ええ、教え方がお上手なんですってね。学校で弾いてみせて褒められたって嬉しそうに話してくれるんですよ」
「いえ、私は大したことは……覚えが早いお陰ですよ」
伊咲さんが大人の人と話している場面を始めて見た。けれど、今重要なのはそんなことを珍しがることではないだろう。
なんの話をしている?
「この子がなにかにこんなに興味を持つなんて珍しかったから、もうちょっと続けられたらよかったんですけどねえ……あら」
歩み寄っていく俺の足音に気が付いて、生徒の母親が振り返る。こんにちは、という挨拶に会釈を返して、伊咲さんを見る。
伊咲さんは、なんというか……もの凄く、困ったような表情で俺を見ていた。
「次の人が来ちゃったのね。あらやだもうこんな時間……それじゃあ先生、あと少しかもしれないけど、うちの子をよろしくお願いしますね」
そんなことを言って、母親は子供の手を引く。ばいばい、と手を振る子供に手を振り返しながら、伊咲さんはふたりを会釈で見送った。俺の横を通り過ぎる際にお互いにまた会釈を交わしてから、俺は前に出る。
背後で車の戸の閉まる音と、エンジン音、そして発進していく音を聞きながら、俺は伊咲さんの前に立った。
「――こんにちは」
言い出しをなんとしたものかわからず、結局そんなありふれた挨拶になった。うん、と伊咲さんは頷き、こんにちは、と返してくれる。
それから俺が、たった今交わされていた会話だとか、ついさっき黒槇さんから聞いた話だとかを切り出しあぐねていると、それを知ってか知らずか伊咲さんは俺を招き入れるように玄関の道を開けた。
「とりあえず――どうぞ、入って」




