知らないところで変わりゆく世界
帰路。
高校から家までの道のりを、俺はひとりで歩いていく――月地は聞いていた通り部活があるし、戸塚は見たときには既にいなかった。まあ、どのみち戸塚だって部活があっただろう。
担任が戻ってきてもなお埋められなかった進路希望調査書は、結局未だに俺の鞄の中に入っていた。苦心惨憺の末、白紙のまま担任のところへ持っていくと、担任はちょっと困ったような顔にはなりながらも、「今年度中に出してもらえればいいから」と言って返してくれた。さすがに「未定」は認可されない時期だが、火急というわけでもない。ただ、春休み中の職員会議で一通り生徒の進路を集計するから、それに間に合うように――とのことだ。
正直、刑期が延長されただけのような気もするが。
「進路ねえ……」
考えるのが面倒というわけでもないし、遠ざけようとしているわけではない。月地なんかの言うように、俺は考えすぎているのかもしれない。今でこそこうして思い悩んではいるものの、土壇場になれば俺はきっと身の丈に合った、学力相応の大学を志望しているのだろう。
無難に、無難に。大過なく。
けれど、生まれて二十年も経ていない身の上で、そんな考えに落ち着いてしまうのは枯れ過ぎているような、なにかが惜しいような気がして。そんな根拠の曖昧な理由で、俺は俺の思う無難へ流れていくことができないでいた。
強いて言うのなら、俺の中に棘を引っ掛けているのは――やはり、伊咲さんだ。
伊咲さんの姿だ。
夢を追い求め、実現している伊咲さんの姿が。
そんな伊咲さんに俺が抱いている憧れの念が。
無難に落ち着こうとする俺の袖を引く。
綱渡りのような危ういバランスの中で、しかしどちらに振れることもできない。
「――まあ、まだ四か月はあるし」
それまでにはどちらかに向くことができるだろう。
そう願う。
それはそれとして……差し当たっては、ピアノだ。
『カノン』の楽譜は、ずっと鞄に入っている。常日頃から持ち歩いているものだからかなり傷んできてしまっている。実際に譜面台に置いて練習したことはほんの数回しかないというのに。
練習したい気持ちはある。けれど、まだそのレベルに達していない。明言こそしないものの、伊咲さんも『カノン』の話はしてこないから、やはり未熟なのだろう。もっとも最近は、伊咲さんはなんだかぼんやりしていることが多いのだけれど……さすがにあれから、伊咲さんが居眠りしているということは一度もなかったが、そのお陰で内緒の練習もできなくなった。まあ『カノン』に関しては、進路希望調査書以上に全く急がないからいいと言えばいいのだけれど――
「あ、おにーさんだ」
不意に背後から知った声がかかった。ん、と振り返ると、俺の後ろから歩いてくるのは思った通り、黒槇さんだった。
「久し振りだね、おにーさん。相変わらずだね」
「ん、そっかな……まあ、久し振り」相変わらずとは、一体なにを指して相変わらずなんだろう。冴えない顔だね、相変わらず?「黒槇さんも、元気そうだね」
元気だよ、と言通り元気に応じながら、黒槇さんは俺の横に並んだ。
黒槇さんを見るのは、あの告白以来だ――もっとも月地と同じく、あのときあの場には俺はいないことになっているはずだから、黒槇さんにとっては俺以上に久し振りになるわけだ。
「おにーさんは、学校の帰り? 今日はこれから、レッスンだっけ」
「うん、そうだよ。月地は部活だけど――」黒槇さんの背を見る。ピンク色のランドセルだ。色が増えてるんだなあ。「黒槇さんも、学校帰りなんだね」
うん、と黒槇さんは頷いた。俺が思わず月地の名前を出してしまったことに対してはこれといった反応はない。俺が過敏になり過ぎか……つくづく、成り行きとはいえ立ち聞きなんてするものではないね。
ともするとうっかりその立ち聞きしたふたりについて言及してしまいそうな内心を自制しつつ、俺は適当な話を振ろうと試みる。
「最近ご無沙汰だったわけだけど、どう? 調子は」
「相変わらず、だよ。おにーさんこそどうなの? 『カノン』は練習してる?」
ああ、そうだった。黒槇さんにはそのことを話しているんだった。俺は軽く首を振る。
「いやー、全然。ピアノ持ってないからねえ、練習したくてもできない感じ」
「おにーさんち、ピアノないの?」
「ないよそりゃあ。あったら練習してるし。というか普通ないでしょ……黒槇さんの家には、ピアノあるの?」
「ないけどね」
ないんじゃん、と唇を尖らせると、黒槇さんは笑って返した。
「黒槇さんは、伊咲さんのところ以外で練習できるの?」
月地の話では、学校の吹奏楽部でできるみたいな話だったけれど……黒槇さんは頷いた。
「できるよ。ほら、私学校で吹奏楽部に入ってるし。その練習で、こっそり」
自由にやってもいい、というわけではないのか。でもピアノに触れる機会があるというのは素直に羨ましい。
「小学校の吹奏楽部か……ん、部活動なの? 少年団じゃなくて?」
あるいはクラブ活動とか。部活動は中学校から始まるものだと思っていたけれど。俺の小中時代はそうだったし。
うーん、と黒槇さんは首を傾げた。
「少年団じゃないけど、似たようなものだよ? 部っていっても、多分中学校とかの部活とは違うと思うけどね。入学式とか卒業式とかでね、校歌を演奏したりするの」
「へえ、そうなんだ」
そういえば、うちの高校も式典なんかの入場曲とかは吹奏楽部の生演奏だったな。小中はCD音源だったけど。しかも演奏どころか歌唱まで収録されていたから、現役生は誰も歌っていなかった。
「それでね、私はね、ピアノなんだけどね。ピアノ弾ける子っていないんだー。五年生にも六年生にもいなくって、私しかいなんだよ。だからせんせーに頼まれるの」
得意げに鼻を高くして黒槇さんは言う。確かにそれは、誇れることだろう。天井付近のスピーカーから流れてくる音楽をただ聞き流していた小学生当時の俺に比べれば、全く立ち位置が違っている。まあ、校歌を歌うとか歌わないとかいう話は、高校生現在の俺だって変わってないんだけどね。
「いいなあ……俺も、ピアノ練習したいよ。どこかに落ちてないかな」
「落ちてるわけないじゃん。もし落ちてたらびっくりだよ」
ふふ、と黒槇さんは邪気なく笑う。俺も笑いながら頷きつつも、結構真剣にそうであったりしやすまいかと思ったりしていた。どうしてもと思うのなら、吹奏楽部の戸塚に頼み込んで、大体いつも空いているという音楽室のピアノを借りるという手段もあるかもしれない。けれど、わけもわからないままに気まずくなってしまっている今の戸塚には、やはりにわかには頼みにくい。となるともはや俺には、そんな儚い偶然に頼るくらいしか思いつかないのだ。
迫る受験生活からの逃避、なのかもしれないけれど。
本当に、ピアノは練習したい。
『カノン』、『カノン』と、ずっと『カノン』のことばかり考えているけれども、伊咲さんに言わせれば『カノン』だって通過点なのだ。だから早く、弾けるようになりたい。そう――ましてや、だ。
本格的に受験生になってしまえば、安穏とピアノやっているわけにはいかなくなるだろう。いくら放任的な俺の両親だって許してくれないだろうし。首尾よくどこぞの大学に進学できたとしても、それがこの近所ということはあるまい。十中八九家は出ることになるだろう。伊咲さんのところに通うことなんてできなくなるし、伊咲さんがいないならば俺がピアノに触ることもなくなるに違いない。
そんなことを考えてみれば、いよいよもって俺には時間がない。
などと――思いを巡らせることで焦燥を強めてしまっていく俺の横で、ふとぽつりと黒槇さんが言った。
「でも本当に、おにーさん急いだ方がいいと思うなあ」
「――え?」
俺の思考を読んでいたかのような黒槇さんの言葉に驚いて、俺は黒槇さんの横顔を見た。すわ口に出していたのかと恥じらうような気持ちになるが、どうやらそういうわけでもなかったようで、黒槇さんも黒槇さんでなにかを思った上での言葉だったようだ。反射的に問い返した俺に、黒槇さんはなんでもないことのように続けて言う。
「だっておにーさん、せんせーに聴かせたいんでしょ? 『カノン』」
「え、ああ、まあ、うん」
そう明言したことはないと思うけど、あながち間違ってはいない。
早くまともに弾けるようになって、『カノン』を弾ききってみせたい――完璧にとは言わない。自分が満足できるくらいで十分だ。
そしてそれを、伊咲さんに聴いてもらいたい。
俺はここまで弾けるようになったんだと、伊咲さんを驚かせたい、伊咲さんに賞賛されたい、伊咲さんに認めてもらいたい――そんな、いっそ子供じみた、ちょっと純粋とは言えない動機。
だったら、と俺の首肯を受けた黒槇さんは言う。
「早く弾けるようにならないと、間に合わなくなっちゃうじゃん。せんせーがいなくなってからじゃ聴いてもらうことなんてできないし、せんせーがいなくなったらおにーさんピアノすぐやめちゃいそうだもんね」
最後のところは良くも悪くも自分で大いに同意できてしまうところだけど――ちょっと、待って。
「……え?」
その前提は、なに?
す、と薄い氷を身体に差し込まれたような感覚。腹の底が冷え、鼓動がありありとわかるほどに大きくひとつ、跳ねる。
「……伊咲さんが、いなくなる?」
声がかすれた。唇が酷く乾いている。
自分でも驚くほど、動揺している。
聞き違いであることを願っている。
「うん」
けれど、黒槇さんは至極あっさりと頷いた。全くなんでもないことのように。そして、様子の一変した俺の方を見上げて、あれ? と首を傾げる。
それから、あ、という顔をした。
「もしかして……おにーさん、なにも聞いてないの? せんせーから。なにも?」
「……なに、を?」
なにを聞いていないのだ、俺は。
なにを聞いているのだ、黒槇さんは。
伊咲さんは、なにを俺に言っていないんだ――?
「あ……そっか、せんせー、まだ言えてなかったんだ。てっきり……」
混乱している俺をよそに、黒槇さんはひとりでなにかを合点している。それから、うわ、と自分の口を塞いだ。
マズい、とでもいうかのように。
「あの、黒槇さん」
「お、おにーさん、御免ね! 私ちょっと間違っちゃった! えっと――私急用思い出したから、先に帰るね!」
ばいばい!
あからさまに誤魔化すように大きな声でそう言って、黒槇さんは一気に駆け出した。あ、と思うも呼び止める暇もない。意外に健脚なようで、みるみる遠ざかっていってしまった。背負っているピンク色のランドセルが、ぽんぽんと跳ねている。
取り残された俺は、黒槇さんへ伸ばしかけたまま所在なげに止まっていた自分の手を見下ろす。
力ない手のひら。
「……一体」
どういう、ことなんだろう。
俺の知らないところで、俺の知らないままに。
なにが変わっていってしまっているのだろう。




