進路はどうしますか 再び
すっかり風が冷たくなって、朝は布団から出るのが辛くなり、午後四時にもなれば薄暗く、例年通りであればそろそろ初雪も降ることであろう、季節はすっかり冬である。
そして来週にはもう冬休みを控えている俺たち高校生の眼前には、またも進路希望調査書が立ちはだかっていた。
「……むう」
夏休み明け直後に書いて以来なわけだが、「未定」と書いたのがまるでつい先日であるかのようにも思われる。詰まるところ、俺の中ではなにも変わっていないわけで、つまり「未定」のままで、さすがにそろそろそれではマズいだろうという頃合いだ。
もう数か月と待たずに完全に受験生へジョブチェンジである。早いクラスでは既に大学入試までの日数をカウントダウンし始めているところもある。
「……んー」
頬杖をついて、手遊びにくるくるとペンを回す。さりげなく周囲を窺うと、さすがに前回のように五分で提出に立ち上がるやつはなく、それぞれになにかしらのことを書き込んでいる。やはり、個人差はあっても意識の変化はあるのだろう。今回もまた提出したものから下校してもいいということなので、このままでは遅かれ早かれまた俺が最後になってしまう。
「……くぅ」
しかし書けないものは書けない。前回からこの数か月、全くなにもしていなかったわけではないが、将来が描けるほどのことはなかった。
しかも輪をかけて辛いことに、志望校の記入欄が増えている。前回はひとつで済んだところを、第三希望にまで枠が増殖している。
勘弁してほしい。第二第三どころか、第一がない俺には手も足も出ないじゃないか。
とうとう俺は頭を抱えた。
「――おうおう、まーた悩んでるなお前」
軽快な調子でやってきたのは月地だ。どうやらたった今提出してきたところであるらしい。
俺は不機嫌な表情を隠さずに顔を上げた。
「……そりゃ悩むよ。まさか嘘を書くわけにもいかないし」
「いやいや、まだそんなに深く考えることないって。ぱっと思いついたところでいいんだよ」
いつぞやと同じようなことを言ってくれるが、そういうものでいいんだろうか。皆、夢とか目標とかを持つこともなく、金銭的なことや立地的なことを考慮することもなく、軽い気持ちで考えているのだろうか――いやまさか。
「んー……せめて国公立、ってところは確かなんだけれど。地方に出るのは問題ないみたいだし」
さすがに、浅い程度ではあるが親との疎通は取っている。どうやら俺の両親は放任的というか、行きたいところに行ってやりたいようにすればいい、ただし私立は金がかかるから回避の方向で、というようなスタンスだった。子としてはありがたいことなのだろうが、それはそれで選択肢の自由度が増してかえって悩ましい。
「月地は、どこって書いたんだ。もう決まってるのか?」
苦しい声で訊く。対して月地はからからと笑いながら、
「とりあえずは、俺の学力で行けるところのちょっと上、ってとこだな。それなりにいい大学は出たいし。私立はまだ考えてないけどな」
ふうん……と聞く。全く考えていないわけではないようだ。
「あ、そだ……お前、塾とか考えてる? 俺は親に行けって言われてんだけどさ。正直行きたくないんだけど、行っといた方がいい大学に行けるかね」
「いや……どうだろうな。塾に通ったから学力が上がるってわけでもないし、絶対に合格できるってわけでもないだろ。要は自分の努力次第なわけで、塾に行かなくてもひとりでやってけるならそれでいいと思うけど……」
頑張れる人はどこに行っても頑張れる。努力できない人はどんな環境でも怠けてしまう。人を左右するのは結局、自分自身だ――とはいえそれも、絶対ではないが。
「んー、そっか……どうするかなあ」
月地は月地で悩むことはあるようだ。唸る月地を前にしながら、俺はそっともう一度周囲を見回す。いつもなら、そろそろもうひとり来てもいい頃だからだ。
果たして戸塚は、ちょうど提出箱に調査書を提出しているところだった。戸塚も書くことはあるようだ。前回もそうだったが……振り返った戸塚と目が合った。
「…………」
戸塚は俺と目が合ったとたん、固まった。それからわずかに逡巡を見せて、結局はすっと目線を切って自分の席へ戻ってしまった。
俺は、そんな戸塚を手招きすることもできず、見送るしかなかった。
しばらく前にレンタルショップで俺の迷いに答えをくれてから、またずっとこんな感じだ。あれでお互いの気まずさは払拭できたかと思っていたのだが、そうはいかなかったらしい。とはいえ以前よりは多少改善が感じられて、呼び止めたり話しかければちゃんと返してくれるのだが、今のように強いて声をかけないときなどには、自分からやって来ることはなくなった。
居心地の悪さは変わっていない。
けれど俺には、どうしてこうなってしまったのかも全く見当もつかないから、アプローチのしようもない。そんな状態だった。
「…………」
視線を戻すと、どうやら月地も戸塚を目で追っていたようだが、俺と同様に、声をかけることはしない。月地も月地でなにを思っているのか、俺と戸塚の間の溝には気づいているようだったが、やはり月地もなにもできないでいるらしかった。
「……はあ。まあ、これで決定じゃないしな。先生が戻ってくる前に、なにか書いておくよ」
担任もこれはあくまでも現時点での希望だからと言っていたし。さすがにまた「未定」だと嫌な顔をされるだろうが。
「月地、今日は部活は?」
訊くと、月地はこちらへ顔を戻しながら頷いた。
「あるよ。そろそろ練習メニューが冬仕様になるんだ。雪が積もったらまともな練習なんて出来なくなるから、それに向けての準備だな。だから練習自体は半分くらいになるだろう。お前は?」
「俺も今日はピアノがあるな。そろそろまともに一曲弾けそう」
「へえ……上達してんの」
「そりゃしてるさ」
ちゃんと練習してるからね……といっても、初歩的な練習曲ではあるけれど。ノーミスで一曲というのはなかなかに難しい。『カノン』なんて先の先だ。
「ま、黒槇さんの方がどんどん先に行っちゃってるみたいで、それに必死に追いつこうとしている感じかな」
「ほう、晴夏はそんなに弾けるのか」
意外そうな顔になる月地。なんだ、月地は知らないのか。黒槇さんの腕前を――勢いこの間のふたりのやりとりに触れそうになったが危うく自制する。どう言い訳したってあれは俺の立ち聞きで、あの場に俺はいないことになっているのだから、うっかり口を滑らせようものなら多方面から吊るされかねない。
くわばらくわばら。
「もともと俺よりずっと弾けてたからね。伊咲さんのところに来る前から、どこかでやってたんじゃないの?」
そんな話をしたことはなかったけど、そう考えた方が筋が通る。いつぞや黒槇さんが『カノン』をあっさり弾いて見せたときも、ピアノの演奏経験は長いというようなことを話していたし。
しかし月地は首を傾げた。
「どうなんだろうなあ……学校で吹奏楽部に入ってることは聞いてるけど。そこでそんなにやるものかね」
「さあ……」俺に訊かれても。
正直に言えば、その後の黒槇さんとの関係を訊いてみたい気持ちもあるのだが、やはり先と同じ理由で憚られる。いや、関係図が変わっているということはないだろうが、心理的な変化を聞きたい。
それに、変化といえば――俺はまたそっと戸塚の背を窺う。
戸塚の内心になにが起こっているのか、それもまた俺はわからないところだ。これこそ俺には容易に知り得ないところではあるけれど……喧嘩したわけでもないのに、理由もわからないまま疎遠になってしまうというのは、やはり少し寂しい。自分が内向的であるとまでは言わないけれど、俺は月地と違って、決して社交性があるような人間だとは思っていない。薄れていく縁はただ見ていることしかできない。だからこのままでは遠からず絶縁してしまう――なんとかできないものか。
そんな方策、思いつきはしないのだけれど。
「――とりあえず、来週から冬休みだ。俺は練習あるけど、またなんかして遊ぼうぜ。冬だし、スキーとかスケートとか」
「ん、ああ。いいね。この辺でスキー場というと……」
「ちょっと遠いけどな。バスで行くか、なんならうちの親に車出してもらうし。――戸塚も誘ってさ」
ん、と俺が返すより早く、月地はやおら首を巡らせて「おーい戸塚、お前も行くだろー?」と声をかけた。突然の呼びかけに驚いたように戸塚は振り返り、訝しげな表情になりながら立ち上がった。
こちらへやって来る戸塚を見ながら、俺は内心に吐息する。こういう気軽さが、俺にはないのだ――と。
やって来た戸塚は、「なんの話?」と首を傾げた。表情は笑みであるものの、やはりどこかぎこちない。
「冬休み、また暇を合わせてスキーとかスケートとか行こうぜって話」
気負いなく月地は言う。俺もなにか言いたいのだが、なにも言うことがない。
ん、と戸塚は言葉を詰まらせた。それから一瞬だけ俺に視線を動かし、すぐに逸らす。
「私は、ちょっと」
「え、なんだ、冬休みそんなに忙しいの? もう受験勉強始めてるとか?」
「そういうわけじゃないけど……」
「んじゃあ、行こうぜ。来年は完全に受験勉強してるんだろうし、今しかないんだからさ。決まりな。忘れんなよー」
軽い調子で、月地はやや渋った戸塚に約束を取り付けた。もしかしたら……月地なりに、なにか気を遣ってくれたのかもしれない。初めて戸塚がおかしくなったときにも、なにかわかっている感じだったし。
月地の決定に戸塚はなにか言おうと口を開いたが、ちょうどそこで担任が教室へ戻ってきたためなにも言うことなく自分の席へ戻っていってしまった。戸塚はなにを言おうとしたのだろう……やっぱり、なにか嫌な理由があるのだろうか。
しかし、そんな俺の思考も、同じく担任の声によって中断された。
「時間になったけど、全員提出したかー? 出してないやつは?」
その言葉に、俺は自分のプリントを見下ろす。
「あ」
月地と話したりしていたのだから当たり前だが、志望校の記入欄は三つとも白いままだった。




