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カノン(伊咲貴音音楽教室)  作者: FRIDAY
壱 その指先で手繰る音
20/57

今はまだなにもわからない

 後日。伊咲さんのレッスンにて。


「……なんだか今日の菅生くんはご機嫌だね。なにかいいことでもあったの?」

 練習を終える頃、不思議そうな顔で伊咲さんが言った。

「え、機嫌よく見えます?」

「うん。演奏がふわふわしてるというか、音が跳ねてるというか」

 そんなに浮足立った演奏をしたつもりはなかったんだけれど……やっぱり聞く人が聞けばなにかしらわかってしまうものなのだろうか。


「ええ……まあ、いいことというか」

 いいことがあったのは、俺ではないのだけれど。ただ、微笑ましく見守っていただけだ。たまたま居合わせただけだともいえるけど。野次馬違う。

 ただ、俺の気分がいいのは、なんと言えばいいのか――強いて言うのなら、

「青春っていいなあ、なんて」

 俺の素直な感想に、伊咲さんは変なものを見る顔になった。


「その青春の真っただ中にいる人がなにを言ってるの」

「あ、まあ、そうなんですけどね」


 言われてみれば。でも俺の気分が軽いのは、月地と黒槇さんの話のお陰だけではない。その少し前に、戸塚のお陰で伊咲さんへの俺の感情がはっきりしたから、ということもあるだろう。

 俺が自分で思っている以上に浮ついた顔をしていたのか、伊咲さんはやや引き気味になりながら、はあ、と吐息する。

「青春ねえ……私なんか、もう青春なんて終わって久しいけど」

「俺だって、青春らしい青春なんてしてる気はしませんよ」


 真っただ中にいるというのは、往々にしてそんなものなのかもしれないけれど。もったいないよー、と伊咲さんは笑った。

「青春時代なんて今しかないんだから、目一杯エンジョイしないと。後になって後悔しても戻れないんだから……ほら、菅生くん、彼女とかいないの? 好きな人とか」

「え?」

 鼓動が、跳ねた。

 それこそつい先日まで、俺は伊咲さんを好きなんだろうかと悩んでいたのだから……でもそれはもう結論したはずだ。


 俺の抱いている伊咲さんへの感情は、憧れだ。

 今だってそうだ。伊咲さんに習っていて、傍にいて、心浮くのは憧れの人を間近に感じているからだ。

 だから、今思わずどきっとしたのは、この間までの迷いの残り香だろう。


「いませんねえ」

 だから俺は、そう答えた。そう? と伊咲さんは首を傾げる。


「まあ、恋愛だけが青春じゃないからね。部活でもなんでも、打ち込みたいものに打ち込んでいくのも青春だろうし。でも菅生くんくらい若い時代の恋愛っていうのは、こう、フレッシュな感じがしていいなあって思っちゃうよ」

「ああ、それは確かに」

 俺は頷いた。学校っていう狭い世界で、地位やお金に左右されずに純粋に恋心を追い求めていられるのは、この年頃くらいのものなんじゃないか。


 と俺が同意すると、また伊咲さんはちょっと呆れたような顔になる。

「だから、君は今その中にいるんだっていうのに……ま、いいんだけどね。青春しなよー」

 時間も時間だ。伊咲さんは一度ピアノを離れ、別室へ出て行った。お茶を持ってきてくれるのだろう。もはや恒例で、確認の工程は省かれるようになった。俺も望むところである。


「――伊咲さんは高校生の頃とか、どんな青春してました? 恋愛とか」

 お茶のボトルとコップを手に戻ってきた伊咲さんに、なんの気なしに訊いてみる。んー? と伊咲さんはお茶を淹れつつちょっと虚空を見上げて、

「どうだったかなあ……彼氏がいたことはなかったよ。好きな人はいたけど」

 伊咲さんの返答も、特に構えた風ではなく、これまでの話の流れといった感じだった。けれど俺は、自分で水を向けたくせに、なぜか動揺させられていた。


 彼氏がいたことはない、という言葉になぜか安堵して、好きな人がいた、という続きに息が詰まった。

 なぜだろう……英雄の残念な話を聞きたくない、とかそういう向きの話で、憧れの人の俗っぽい話は知りたくない、という感じなんだろうか。

 自分で訊いておいて、失礼な話である。


「中学生の頃は、恋愛とかより他のことに夢中になってたから全然気にしてなかったし」

 俺の内心の揺れに気づくこともなく、伊咲さんは続ける。

「大学生のときは全くそれどころじゃなかったからね。バイトと勉強と練習と。そりゃ周りの同級生とかからはいろんな話が聞こえてたけど、私には関係ないって感じだったね。――ちょっともったいなかったかなあ。思ってもどうにもならないことだったけど」

 言いながら、お茶の入ったコップを渡してくれる。俺はそれを受け取りながら、

「……告白されることとか、なかったんですか?」

 訊いてみてから、なんで訊いちゃったんだろうとちょっと後悔したが、果たして伊咲さんは軽く手を横に振った。

 笑いながら。

「ないない。私別に美人でもなんでもないからねえ。ピアノ練習したり親と喧嘩したり親戚に頭下げて回ったり、いっそ荒んでたっていうくらいだし」

「……伊咲さんは」

 ぼそっと、俺はつぶやくように言った。コップで口元を隠すようにしながら、

「伊咲さんは、綺麗ですよ。輝いてます」

「そう? ありがとー。でも褒めてもなにも出ないぞー」

 そんなことを言いながらも、照れたように頭を掻いて笑う。俺は、そっと視線を逸らした。

 恋愛感情じゃない。そうだろう?


「――伊咲さん、今好きな人とかって、いないんですか」

 気が付けば、なぜかそんなことを訊いていた。これは本当に後悔した。なんというか、なにかの流れに乗せられてしまった感じだ。決して訊きたかったわけではないし、伊咲さんの答えだって聞きたくない――けれど、今更取り消すことだってできない。

 伊咲さんは。

 え、とちょっと表情が固まって。

 つい、と俺から視線を逸らした。


「――い、いない、かな」

「……そうですか」


 このときの俺の気持ちは、なんと言えばいいんだろう――上手く表現できないなにかだった。

 問うてしまったことへの後悔と。

 いない、という伊咲さんの回答に対する、安堵のようなものと。

 それを自覚した自分に対する戸惑いと。

 そういうものが、ごちゃ混ぜになったような感情だった。


「い、伊咲さんは年の差恋愛とかどう思います?」

 明らかに場繋ぎのような問いをかける。それは勿論、深い意図のある問いではなく、先日の月地と黒槇さんとの関係を思い出してのものであって、伊咲さんも話半分に応えてくれればいい、という程度の思いだったのだけれど。

 予想に反して、伊咲さんは虚を突かれたように一拍ほど口を開けたまま固まった。

「え、と、年の差?」


 えっと、と俺の方を一瞬だけ見てからまた視線を逸らして、

「い、いいんじゃないかな。私は、気にしないよ……うん」

「そ……そうですか」

 軽い気持ちの投げかけだったのに、そんな真に受けたような反応をされると、俺はまたちょっと二の句に詰まって口を閉じてしまう。


「と――とにかくさ、無理にすることでもないけど、短い青春時代なんだから、いろんなことして楽しんだらいいよ。ね?」

 俺が黙ってしまったことの空隙を埋めるように、やや急いだ口調で伊咲さんが言った。ええ、と俺は頷いて、結構無理して笑った。我ながら相当引きつっているようにも思うが、コップで半分以上隠れていることを願う。


 なんだか妙な空気になってしまって、俺はコップに残っていたお茶を一息に飲み干した。

「きょ、今日はもう帰りますね。数学が宿題出されてて、これがかなり難しいんですよ。俺数学苦手で」

 かなり強引に明るい調子の声を張って、俺は言った。そ、そっか、と伊咲さんもぎこちない笑みを見せながら頷く。

「数学は難しいよね! 私も数学は苦手だよ。もうなにひとつ思い出せないなあ」

 俺からコップを受け取りつつ、立ち上がる。俺も鞄を持って立ち上がった。一緒に玄関まで向かう。


「それじゃあ――ピアノは、また来週だね。今日までのところ、一応軽くでいいから、見ておいて。左手の遅れもかなりよくなってるから、その調子を忘れないように」

「はい。復習しておきます」

 数学よりずっと楽しいですから、と冗談めかして言う。そうかも、と伊咲さんも、今度は無理なく笑ってくれた。

 それから、靴を履いて、では、と出ていこうとしたところで、あ、と伊咲さんが声をもらした。

 なんだろう、と振り返ると、伊咲さんはまた困ったような表情になっていた。


「あ、その」

 視線がさまよう。なにかを探している、というわけではなく、困っているというか。

 迷っているような。


「なんでしょう」

 小首を傾げ訊くと、う、と伊咲さんはさらに困惑の色を深めた。胸の前に組まれた手指がそわそわと落ち着きなく動いている。


「えっと、あのね……」

 なんだろう。なにか忘れたことでもあっただろうか。それともなにか間違えたか……? だが黙って言葉を待つ俺に対し、やがて伊咲さんは、ふう、と深い吐息をして、肩を落とした。


「……いや、御免、やっぱりなんでもない……帰り道、気を付けてね」

 もう暗いから、と伊咲さんは言うが、俺の家は隣だ。確かに物騒な昨今、数メートルの間になにが起こるかわからないとはいえ――とにかく俺は、ええ、と頷いた。


「では、また」

「うん、また」


 俺は軽く会釈して、伊咲さんは片手を小さく振って、戸を閉じた。

 戸の閉じる寸前、狭まっていく隙間から一瞬垣間見えた伊咲さんの表情が、なぜだか俺の中に残った。

 先程まで浮かべていたような、困った表情。

 そして、なぜだか今にも泣きだしそうな、そんな表情。

 その表情の理由はなんなのか、なにがそんな顔をさせるのか、俺にはわからなかった。ただ、印象に残っただけだった。

 仮にわかったとしても、俺にできることなんてなにもありはしなかったのだけれども。気づくことだって、決してできないことだったのだけれども。

 なんとかして気づくことは、せめて想像するくらいのことはできなかったのかと、理不尽に自分を責めるようなことも思うことになる。


 しかし少なくとも、俺にはなにもわからなかった。

 このときまでは。


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