向き合って
戸塚のお陰で気分も軽く帰ってみたら、伊咲さんの家の前にまたいつぞやのように黒槇さんが立っていた。全く、以前と同じ流れだな。けれどひとつ違うのは、黒槇さんの前には既に月地が立っていることだ。ああやってふたりが並んでいるのを見るのは二度目だが、こうしてみると月地も見かけによらずしっかりおにーちゃんしているようだ。
しかしなにをしているのだろう。迎えに来たのなら、もうそろそろ暗くなるし、早く帰った方がいいと思うのだが……ふたりはこちらに背を向けていて、俺にまだ気づいていない。だから軽く声でもかけようかと口を開いたところで、先に黒槇さんの声が聞こえた。
「あ――あのね、おにーちゃん!」
その様相はなにやら切迫しているようにも見えて、俺は思わず呼びかけかけていた口を閉じ、あまつさえ咄嗟に電柱の陰に身を隠してしまった。
「うんー? どした晴夏」
親とでも連絡を取っていたのか、スマートフォンから視線を上げて月地が応じる。その態度は緊張しきりの黒槇さんとは対照的に、太平楽に泰然としている。
「あ、あのね、その、ね」緊張で上手く舌が回らないのか、たどたどしくなりながらも黒槇さんは続ける。「お、お、おにーちゃんって、す、す、す、好きな人とか、いるの」
おっとこれは。俺は思わず身を隠してしまった数秒前の自分を恨む。盗み聞きする気なんて毛頭ないのだが、一度隠れてしまった手前これでは出るに出られない。しかし向こうのふたりの会話はしっかりと聞こえてしまう。
黒槇さんの問いかけに、月地はあくまで悠然とした構えだ。
「好きな人? ああ……好きな人な」
スマートフォンを操作する指を止めて、はは、と月地は笑う。
「なんだ、晴夏も菅生と似たようなこと言って。晴夏も思春期かー? あいつもあんなことよく真顔で訊けるよなー、あいつも思春期だ」なんだか向こうで好き勝手言っている不届きなやつがいる。こっちは大真面目に悩んでいたのだからと飛び出していって断固抗議したいところだがまさかそんなことをするわけにもいかない。「ま、菅生は昔っからそういうとこあるからなー、応じるこっちが恥ずかしくなるよ」この野郎。
「お、おにーさんの話は別にどうでもいいから」黒槇さんちょっと酷くないですか。おにーさん傷ついちゃう。「どうなの、いるの? ねえ」
月地の返答に、はぐらかされていると感じているのか、黒槇さんはじれったいように言葉を重ねる。対して月地はまた小さく笑い、
「いやー、今はいないなあ。――どうしたんだ突然。あ、もしかして晴夏、学校で好きなやつができたな? 晴夏もお年頃か――」
いや違うんだよ月地そうじゃなくて、というのは俺の言う台詞じゃない。こっそりと窺うと、月地はスマートフォンを強く握りしめて震えていた。
「全くけしからんな! 誰なんだそいつは! 名前と所属クラスと住所電話番号親御さんの職業を教えなさい! 現実を教えてやる」
お前は父親か。
「そ、そうじゃなくて! いや、そんな感じなんだけど……で、でもそっか、おにーちゃん、好きな人いないんだ……」
荒ぶる月地にちょっと慌てた黒槇さんだったが、仄かに嬉しそうだ。
――もしも私の好きな人が、他の誰かが好きで、その誰かと一緒になっちゃったりなんかしたら……私の世界はきっと、終わっちゃう。
つい先程聴いたばかりの、戸塚の言葉を思い出す。
成程それほどに思い詰めてしまうものなら、それを月地に問うた黒槇さんの勇気はどれほどのものだったのだろう――そして望んだ返答を得られたことに対する喜びは、どれほど大きなものだろう。
しばらくその喜びを噛み締めていたらしい黒槇さんだったが、やがて強く意を決したらしい、きっと顔を上げて月地を見据えた。
「あ、あの、おにーちゃん!」
「ん、おう、どうした」
黒槇さんの剣幕に、ようやくこれはただ事でないと気付いたようだ。月地もようやくスマートフォンをしまって黒槇さんと向き合う。対して俺としてはいよいよここにいてはマズいのに動くこともできない。
全く違う事情で慌てるおにーさんに構うわけもなく、黒槇さんはとうとう、言った。
「わ、わた、私、お、おにーちゃんのことがす、す、好きなの!」
凄いぞよく言った!
などと喝さいするわけにもいかない俺の現在位置ももどかしい。緊張で噛みまくりだったのはご愛敬というものだろう。けれど、
「はは、マジかー嬉しいな。まだそんなこと言ってくれるかー」
月地は、どうやら本気で構えていなかった。以前俺に話していたような、小学校入学当時と同じ告白と受け取っているらしい。そうじゃない、と言いたいが言うべきは俺じゃない。
「本気なの! 本気なんだよおにーちゃん! 私、おにーちゃんが好き!」
「わかったわかった。ありがとなー」
ダメだ、月地はまともに取り合う様子が全くない――そういえば、いつぞやに月地は黒槇さんを、妹みたいなもの、と言っていた。妹のように思っているから、その恋心の行く末を案じ、しかし自身に向けられるものが親愛以上のものであると思わない。
黒槇さんはどうするんだろう。俺には、こういうときどうするのが正しいのか想像だにできない。黒槇さんは。――そっと窺う。
黒槇さんは、月地がちゃんと気持ちを受け取ってくれていないことがわかっているのだろう、けれどどうしたらいいのかわからない顔をしていた。困惑し、焦燥し、あう、と表情を歪め、拳を強く握り、肩を震わせ、
「――え、う」
泣いた。
堪え切れなかったように、ぼろぼろと涙を流して黒槇さんは泣いていた。本当は泣きたくなんかないのだろうに、止めどなく涙が頬を伝っていく。
どうにかしなければいけないのに、どうしたらいいのかわからないから――どうしようもない自分に、涙した。
「ち、ちがっ……そうじゃ、なっ、て、わた、私……」
嗚咽交じりに黒槇さんは言い募る。なんとかして誤解を解こうと。自分の本当の気持ちを理解してもらおうと。
月地は。
泣き出してしまった黒槇さんに、驚きを隠せず、慌てて膝をついて黒槇さんに視線の高さを合わせた。
黒槇さんの頬の涙を掌で拭う。
「晴夏、御免な晴夏。……御免」
謝罪の言葉を重ねる月地。その顔を見るに、月地は――多分、さすがにわかったんだと思う。理解できたんだと思う。
黒槇さんの告白した好きという感情が、決して親愛によるものではなく、恋愛感情によるものだと。
黒槇さんの気持ちは、本物だと。
そして、多分……黒槇さんが、いつまでも幼いままではないということを。
月地は、どうする?
「――その、なんだ」
しゃくり上げる黒槇さんがようやく落ち着いたところで、月地はちょっと困ったように頬を掻いた。
「その、晴夏が俺のこと好きっていうのは、そういうことで、いいんだよな?」
重ねる確認。黒槇さんはぐしぐしと目元を擦りながら頷く。「そっか……」月地は重々しく頷いた。
しばしの沈黙。黒槇さんの嗚咽だけが聞こえる。
そしてやがて――ようやく、月地は口を開いた。
「その――ありがとう、晴夏。すごく嬉しいよ」
まずは月地はそう言った。黒槇さんは泣き腫らした目で月地を見て、俺は固唾を呑む。
でも、と月地は続けた。
「でも、晴夏……晴夏はまだ小四だよ。でも俺は高二だ」
「と、年のさ、差は、関係ないって、言ってっ、た!」
月地の言葉に、黒槇さんは嗚咽交じりに、悲鳴のようにそう言った。誰が、と思ったかどうかはわからないが、月地はそこには追及しなかった。
頷く。
「うん。だから、そうじゃなくて……晴夏には、まだまだ時間があるんだよ。これから中学生になって、高校に進学して、大学にも行くかもしれない。成長していくたびに、新しい出会いがたくさんあるんだ。その出会いの中には、俺なんかよりもずっといい人がたくさんいるかもしれない。――晴夏の世界はまだ狭いんだ。その世界の中じゃ、俺はちょっとかっこよく見えているかもしれないけれど……そんなことなかったって思う日が、きっと来ると思う」
成程、と俺はそっと吐息した。
想像以上に、月地の答えはしっかりと考えられたものだった。納得のいく、理解のできる答えだった。
確かに、黒槇さんの世界は狭い。そしてその世界は、これからまだまだ広がっていく。その中で、黒槇さんはきっといろいろな人と出会っていく。
だから、と月地は言った。
「晴夏の気持ちは、凄く嬉しい。でもだからこそ、俺は晴夏の気持ちに、今すぐには答えられない」
新しい出会いの中で、晴夏の気持ちが他の誰かに移ってしまったら、きっと俺は悲しい。
月地は、そう言った。
それは、どこか、戸塚の言っていた感情にも通じるなにかを俺の中に抱かせた。
好きな人の気持ちが、他の誰かに移ろってしまったらきっと、耐え難い。
「移ったりなんか、しない! 絶対にしないよ!」
激しく首を振って、黒槇さんは言った。それは、強い気持ちだ。それを受けて、そっか、と月地は微笑んで、黒槇さんの頭にそっと手を置いた。
それじゃあ、と。
「それじゃあ、晴夏。こうしよう。俺はやっぱり、今すぐには答えられない。けれど、もし……もしも、晴夏が高校を卒業したときにまだ俺に同じ気持ちを持っていてくれたなら――そのときは、俺は今度こそ、ちゃんと答えるよ」
いろんな出会いを経て、それでもなお、気持ちが変わらずにいたのなら。
そのときこそ、また改めて向き合おう。
月地の言葉に、黒槇さんは涙を強く拭い、上目遣いに月地を見た。
「……ほんと?」
「本当だよ」
「待っててくれる?」
「待ってるよ」
「絶対に? 他の誰かと付き合ったりしない?」
「しないよ。絶対にしない。ちゃんと、晴夏が高校を卒業するまで、待ってるから」
それは取りようによってはかなりハードな約束なのではないかと思った。けれど、もしかしたら……と、思う。
好きな人なんていない。月地はそう言った。けれど、本当はもしかしたら……と。
月地もまた、最初から、そういう気持ちを持っていたんじゃないかな、なんて。
「わかった! それじゃあ、絶対に待っててね。私、絶対に気持ちなんて変わらないから。高校卒業したら、またおにーちゃんに告白するから!」
ようやく、黒槇さんは笑った。おう、と頷いて月地も立ち上がる。その姿を見届けることなく、俺はそっとふたりに気付かれないようにその場を後にした。
……こっそりと、俺も笑みをもらしながら。




