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カノン(伊咲貴音音楽教室)  作者: FRIDAY
壱 その指先で手繰る音
18/57

誰かを好きになったことはありますか

 結局、「さすがにふたりじゃなあ……」ということでボーリングは取りやめ、ファストフードで時間を適当に潰して帰った。月地が戸塚に連絡してみると言っていて、俺には戸塚になにが起こったのかさっぱりわからなかったから、そのまま任せることにした。


 それから一週間くらいは、これといったこともなかったのだが、なんとなく学校で戸塚に避けられているような感じがあった。話しかけてもなんだかよそよそしいし、遊びに誘われるようなこともなくなった。俺としてはクラシックのことでちょっと訊きたいことがあったのだけれど、それができる雰囲気でもない。連絡してみると言っていた月地に訊いてみても、「ほんとに……御免な」と謝られるばかりでなにがなんだかさっぱりだ。


 だから、またCDのレンタルショップでばったり出くわしたときには結構驚いた。

「――あ」

「ん。お、おう」

 俺に後ろ暗いところは別にないはずなのだが、戸惑いは禁じ得ない。戸塚はというと、なにを思っているのかわからないが、視線を下に逸らしながら「うん」と頷いた。

 沈黙。

 気まずい。


「……な、なあ戸塚。お前もなにか借りに来たのか? アニソン?」

 いつぞやの意趣返し、というわけでこそないが、空気を和らげようという気持ちで冗談調子に言ってみる。なのに、

「……別に」

 戸塚の返答はつれなかった。視線も下がったままだ。所在なく下された両手はそわそわと、まるでこの場を去る理由を探しているかのようだ。


「えっと……あのさ、戸塚」とうとう俺はこれ以上のアイスブレイクを諦めて、こちらから水を向けることにした。「最近俺、なんか避けられてる気がするんだけれど、悪いことしたかな」


 俺の言葉を聞いて、戸塚の手指がわずかに跳ねた。けれどそれもすぐに抑えられる。

「……別に、なにもないよ。避けてもいないし。……そういえば、しばらく遊びに行ってないね。ほら、最近、部活が忙しくってさ。暇がないだけ」

 言葉面だけなら、それらしい理由ではある。けれど、それを言う戸塚のトーンは低く、視線もとうとう顔ごと横を向いてしまった。

 さすがにこれでは俺にだって、なにかあったんだろうと確信を得られようというものだ。だから追って言葉を重ねようと口を開いて「あのさ」戸塚に遮られた。


「その……菅生、ほんとに、ピアノ教室の先生が好きになったの?」

「え」

 藪から棒、ではなかったのかもしれない。そういえばこの間、戸塚がおかしくなったのはその話になってからだ。


「いや」

 けれどもそれは戸塚の先走りというか、勘違いで――勘違い、で。

「…………」

 勘違い、のはずだ。


 そういえば……結局、月地の話を聞いただけではまだ判断がついていないのだった。

 俺が伊咲さんに抱いている気持ちは、単純な憧れなのか――恋愛感情なのか。

 まずは惹かれて、一緒にいたいと思う。月地の話では、そんな感じだったはずだ。

 でもそれではまだ曖昧で、憧れとなにが違うのかわからない。俺は、夢を諦めないでいる伊咲さんに惹かれて、それを叶えていく姿を見ていたいとも思う。これは憧れとは違うのか。

 だから、俺の中では結論は出ていなくて――


「違うの?」

 重ねられる問いかけに、俺はいつの間にか下がっていた視線を上げた。それまであらぬ方向へ避けられていた戸塚の視線は、気が付けば俺へまっすぐに据えられていた。

 その瞳の奥に垣間見えるのは、焦りのようなもの、不安のような陰。

「……わからないんだ」

「どういうこと」

 間髪おかずに連ねられる言葉に、俺は考えながら返す。


「俺は、ピアノ教室の先生に、」伊咲さんに、「憧れている、っていうのは確かだと思うんだ。けれどそれを、恋愛感情なんだって言う人がいてね。わからなくて……人を好きになったこと、なくてさ。俺が感じている気持ちが、憧れなのか、恋愛感情なのか。月地にも訊いてみたんだけど、よくわからなかった」


 そう、結局よくわからなかった。月地の話では、やっぱり憧れと恋愛感情の間の違いはわからない。

 言うと、戸塚がなにかぼそっと言ったような気がした。え? と見ると戸塚はまた顔を横に背けてしまっている。髪に隠れて表情はわからず、口元だけが見える。


「……違うよ」

「違う?」

「うん……それ、恋愛感情じゃないよ。菅生の思うところで合ってる。それは憧れだよ。菅生はその先生に憧れてるだけで、別に好きってわけじゃない」

 声音低く、戸塚ははっきりとそう言った。

「だから……別に、悩むことないよ」


 感情の感じられない声。その意味するところはわからなかったが、そうか、と俺は頷いた。

 成程。

「やっぱり違ったのか……危ない危ない、危うく勘違いで恥ずかしいことになるところだったよ」

 もし万が一思い募って告白なんかして、でも実は俺の勘違いだったなんてことになったら、それほど恥ずかしいこともないだろう。いくら恋愛事に疎い俺だって、告白なんてアクションがどれだけ勇気の必要なことなのかくらいは想像できる。命綱なしでバンジージャンプとか、パラシュートなしでスカイダイビングとか。どのみちただの投身自殺だな。


「ありがとう戸塚、ちょっとすっきりした。やっぱり自分であれこれ悩むよりも、誰かにこれだってはっきり言ってもらった方が呑み込みがいいな」

「……別に。いいよ」


 戸塚の顔は逸らされたまま、こちらへは戻ってこない。それをまだ怪訝には思うものの、俺は大して気に留めなかった。ついでに、とまで俺は口を開く。

「この際だからせっかくだし、人を好きになるってどんな感じなのか知らないか? 戸塚って、誰かを好きになったことはある?」

 ちょっと調子に乗り過ぎているかもと、内心にちらっと思わないこともなかったが、既にこちらの悩みは晒している。ついでにその悩みは解決を見て、心持ちも軽くなったところだ。異性とこんな話をする機会なんて滅多にないだろうし、好機だ、という思いの方が勝った。

 果たして、戸塚は頷いた。


「……あるよ」

「そっか。どんな感じになるんだ?」


 訊いて、戸塚はすぐには答えなかった。横に逸れていた顔が、下へ向く。手は宙をさまよい、手近にあった棚からCDを一枚抜き出して、もてあそぶ。

 さすがに踏み込み過ぎかな? と思い、俺が問いを引っ込めようかと口を開いたとき、ようやく戸塚はぽつぽつと話し始めた。


「……あのね、誰かを好きになると、その人のことが凄く大事になるの」

「ほう」

 これは、月地とも異なる言葉だ。俺は静聴の構えになる。


「……その人のことを想うとじっとしていられなくなったりして、遠くに見かけただけでもちょっとドキドキしたりする。なにか話したりして別れたあとなんか、変なこと言っちゃったりしてなかったかなって心配になる。次に会ったときはあんな話をしよう、こんなことを言おうって考えてわくわくする」

 なんというか、真に迫る話だ。俺は相槌も忘れて聴く。


「それで、もし会えなくなっちゃったらどうしようって凄く心細くなる。私のことどう思ってるのかなって考えると息が苦しくなる。もし……もし、その人に誰か、私以外の他の誰かに好きな人がいたりなんかしたら、ってそう思うと、思っただけで、泣きそうになる」

 声が、揺れた。まさか泣いたりするんじゃと心配になったが、戸塚は、く、と息を呑んで、続けた。



「もしも私の好きな人が、他の誰かが好きで、その誰かと一緒になっちゃったりなんかしたら……私の世界はきっと、終わっちゃう」



 ――一瞬だけ。

 それはほんの一瞬だけだったけれど、ずっと低く抑えられていた感情の一端を、生のままの感情の一角を、垣間見たような気がした。俺にはそれがどんな感情なのかすぐにはわからなかったけれど――

 それが、それこそが、恋愛感情というものなのだろう。


「――なんて、それくらい思い詰めちゃうような、そんな気持ちだよ」

 張り詰めていた空気から力を抜くように、戸塚はそう言った。カツン、と指先でCDのプラスチックケースを弾く。その軽い音で、俺は我に返った。思っていたよりずっと戸塚の話に実感が込められていて、知らず完全に引き込まれてしまっていたようだ。「あ、ああ」と反射的に気の抜けた反応をしてしまう。

「そ、そうなのか……凄いな。人を好きになると、そんな風に……」それなら確かに、俺の伊咲さんへ抱いている感情は、恋愛感情ではないだろう。俺のそれは、そんなに強く激しいものではない。「凄く参考になったよ。な、なんかちょっと……怖くなった」

 人を好きになるというのがそんなに狂おしいものであるのなら、俺はそんな自分に耐えられる気がしない。


「ふふ……そう?」

 怖気づいた俺に、戸塚は小さく笑った。戸塚が笑うのを見るのは酷く久し振りだ。俯いたままなので表情までは窺えなかったが。


「なんか変なことばっかり訊いちゃった気もするけど、ありがとな戸塚。胸のつかえが取れてすっきりしたような気分だ」

「そう……別に、気にしないで。――それじゃあ、私はもう帰るね」

「おう、気を付けて……あれ、なにか借りに来てたんじゃないの?」

「うん、これ借りて帰る」

 ずっと手に持ちっぱなしだったCDを肩越しに見せながら、戸塚はレジの方へ歩いて行った。ああ、と返しながら、俺はちょっと首を傾げる。


 戸塚が持っていったあのCD、ヴィジュアル系でパンクロックなバンドのCDだったんだけど、戸塚ってああいうのも好きだったのか。人は見かけによらないものだなあ。


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