人を好きになるってなんですか
「――んじゃあ、それでいいな。おい、菅生も行くだろ?」
「え、あ、なに?」
ぼんやりと頬杖をついて物思いにふけっていたために、目の前の月地と戸塚の会話を全く聞いていなかった。急に話を振られて、俺は瞳を瞬かせる。
「御免、なんだって?」
「だから、今日この後、遊びに行こうぜって話だよ。ボーリングなんてどうだ。行くだろー」
「ん、ああ、うん……」
俺は頷いた。今日は暇だ。レッスンはない。よし、と戸塚は頷いた。
「決まりね。それじゃあ――あ、御免、私ちょっと部室に寄らなきゃいけないんだった。先に行っててもらえるかな」
おう、と手を上げて応えた月地に同じく手を上げて返して、戸塚は小走りに教室を出て行った。その背を見送って、月地も立ち上がる。
「んじゃ、俺らは行くか」
「あ、ああ」
鞄を持って俺も月地の背を追った。廊下で追いつき、月地の横に並ぶ。
「…………」
「どうしたお前、今日はなんだかずっとぼけっとしてるけど」
「そんなことは……そうだったか?」
「おー死んだトンボみたいな目ェしてたぞ」
「そこまで生気のない目をしてたつもりはさすがにないんだが」
しかも複眼じゃないか……俺の目はふたつしかないぞ。
「なんだよ、悩み事か? 聞いてやるぜ。聞くだけだがな」
俺の顔を見ながらにやりと月地は笑う。聞くだけか。まあ、聞いてもらってもいいかな。
「なあ、月地」
「なんだい」
「――人を好きになるって、なんだ」
俺の問いかけに、月地は数秒反応せず、しかしやおらかくっと顎を落として、
「はい?」
「いや、だから、人を好きになるって、どういう状態なのかな、って」
俺としては至極真面目な質問だったのだけれど、月地としてはまだ呑み込めていないようで、俺をまじまじと見ながら「まさかお前からそんなこと訊かれるとはなあ」などとつぶやいている。
「どうしたんだ、突然。――あ、もしかして、例のピアノ教室のおねーさんのことか? 晴夏から聞いてるぞー、やっぱり美人なんだってな」
「いや、それとはまた別の話……」なのだろうか。どうなんだろう。
俺の感情についてはまだ曖昧としているけれど……いや、そういえば、もっとはっきりとした話があるじゃないか。それこそ俺の話ではないけれど。
「……例えばさ、月地は、好きな人っているか?」
俺は内心に黒槇さんの顔を思い出しながら訊いてみた。やや唐突に過ぎるかもしれないが、同年代ではよくある問いかけだろう。もっとも、その場合はもっとざっくばらんに「彼女いんの?」くらいな問いだろうけれど……月地はそこまで違和感を感じることもなかったようで、うーんと首を傾げる様子だ。
「いやー……いないな」
「そうなのか」その答えは、果たして黒槇さんにとって幸なのか不幸なのか判然としないが、額面通りに呑み込んでおく。「過去に、人を好きになったことは?」
「そりゃあ、あるけどさ……告ったこととかはないけど。高校に入ってからはないよ。でもどうして」
高校に入ってからはない、ということはそれ以前なのか。中学生とか、小学生のとき? そんなに早くから……いや、黒槇さんも小学生なんだった。
「人に好かれたら、どうする? 好きだって言われたりしたら」
「あん? そりゃあ、相手によるなあ。可愛くて話が合う子だったら……って、なに言わせんだ」
照れたように月地はばしばしと俺の背を叩く。それが結構力が入っていて、痛い。
「じゃ、じゃあさ」叩かれた勢いで若干咳こみながら、俺は続けて訊いてみる。「その相手が、小学生だったら?」
月地の、俺の背を叩いていた手が止まった。表情を消して、真顔で俺の顔を覗き込んでくる。……ちょっと怖いんだが。
「な、なんだ?」
「お前……まさか、晴夏に告られたのか?」
勘違いも甚だしい。
「そんなわけがあるか! 絶対に違う! そんな事実はネッシーの実在よりもありえない!」
あってたまるか。というか月地の目が怖い。空洞のような瞳が怖い。
「――そっかー、そうだよなあ。だって晴夏は言ってたもんなあ、『ハルカ、おにーちゃんのお嫁さんになる!』とかなんとか。あれは可愛かったなあ」
先程までの底冷えするような視線が嘘のように消え、月地はそんなことを言って笑う。どうやら俺の危機は去ったようだが、黒槇さん、そんなこと言ってたのか。
「それって、いつの話?」
「んー? そりゃあ、晴夏が小学生に上がるくらいの頃だよ。さすがに今じゃそんなこと言わねェし、言ってたことも忘れてんだろうけどさ。少なくとも、晴夏の理想はスポーツ万能頭脳明晰眉目秀麗な俺みたいな男ってことだ。お前なんぞお呼びじゃないんだぞ」
「……あんまりな言いようだな。お前だって大して変わらないだろ」
俺の返答のテンションがやや低かったのは、決して月地の自意識過剰な物言いに凹んだからではない。勿論冗談半分であることもわかっているが――それ以上に、俺は知ってしまっているからだ。
その、小学生に上がる頃に言ったという黒槇さんの気持ちが、今でもどうやら変わっていないということに。
それも、年齢差なんかに悩むくらいには現実的で、『お嫁さん』などといういかにも子供めいた像よりずっと現実的になっているということに。
今となっては言わなくなったというのは、決して忘れたからなどではなく、本気だからこそ言えなくなったのだろう、と。
理想像というか。
月地しかいないらしいんだよ。
少なく見ても四年。それだけの歳月が、小学生にとって長いものだったか短いものだったか、高校生の俺にはもう思い出せないんだけれど、ひとりの少女が成長するにはきっと十分な時間だったんだろう。
「…………」
うーん。
まあ、俺が気に病んでも仕方のないことではあるけれど。余計なお世話と言われるとも思うけれど。
なんだか応援したいなあ、というか。
「……うーん」
「何なんだよさっきから。変なやつだな……ああそういえば、人を好きになるってどんな感じか、だったな」
最初の質問を思い出してくれたらしい月地が宙をにらむ。俺も余計な誤解から離れられてちょっと安堵しながら、月地の答えを待つ。
むぅ、と月地は唸った。
「ダメだな。なんて言ったらいいのかわからん。改めて訊かれると、答えにくいんだな。……そうだな、そりゃあ、まずは入り口が必要だよな。顔が好みとか、性格がいいとか、まずはそんな理由じゃないか」
「ふうん……それから?」
「それからってなんだ」
「それだけなのか?」
「いやあ……なんというか、理由はなんであれ、まずは惹かれるだろ。それで、一緒にいる時間を増やすわけだ。そうしているうちに、本当に好きになったら、この人とずっと一緒にいたいなあ、あんなことこんなことしたいなあ、とか思うわけだ」
「あんなことこんなこと……?」
どんなことだそれ。だが俺の疑問符を月地は両手で受け流して見送った。
「んで、もしもなにか合わないなって思うところがあったら、別れる」
「そんなものなのか……ん、どこから付き合うんだ?」
「それは人によるんじゃないか? ちょっとでもいいなと思ったら告るやつもいるだろうし、絶対に行けると思ってからのやつもいるだろうし……ま、どのみち相手次第なわけで、こっちがどんな気持ちでもフラれるときはフラれるんだけどな。だからアピールしつつ接近していくわけだ」
「ほう……」
俺は感心した。凄いな。さすがだ。
「経験豊富なのか……」
「待て。今の流れだとまるで俺がフラれまくってるみたいしゃないか。違うからな」
しかしフラれる側の方が話に重みがあったような気もするんだけどな……。
そんな感じで話しながらようやく生徒玄関まで到着したとき、後ろからぱたぱたと足音が聞こえて、現れたのは戸塚だった。
「あっれ、まだこんなところにいたんだ。もうとっくに行っちゃってたと思ってたけど」
言いながら、戸塚は靴を履き替えにかかる。腕に楽譜らしき大判の紙束を抱えたままだからやりにくそうだ。俺と月地は既に履き替えているので、戸口で戸塚を待ちながら、
「いやさー、菅生がいきなり変な話振ってきてさあ」
「へえ。え、なになに、なんの話?」
「いや、ちょ、待て月地」
戸塚は左足を履いて、右足にかかる。踵が入らないようだが、片手しか使えないため手間取っている。そんな姿を横目に、止めにかかる俺をひょいひょいとかわしながら月地は面白がる調子で、
「それがさ、恋愛相談だよ恋愛相談! こいつ誰か好きなやつできたみたいなんだけど、人を好きになるって何なんだとかクサいことを――」ざぱぁ、という音が聞こえた。紙の音だ。
俺と、突然のことに驚いて言葉を切った月地で見ると、戸塚は靴に苦労してまで抱えていた楽譜の紙束を足元にぶちまけていた。水をこぼしたように楽譜が放射状に広がる。しかし戸塚はなぜか固まっていて、拾おうとするどころか微動だにしない。
「え、と――戸塚?」
恐る恐る俺が声をかけると、戸塚はそこで電源が入ったみたいにぴくりと動き、「あ」と声をもらして楽譜を拾うべく上体を倒した。
戸塚の鞄はリュックサックタイプで、今も背中に背負われていた。だから戸塚が前かがみになればリュックは逆さになる。そしてうっかりしていたのか、リュックの口は開いていた。
ズドドドド、とリュックの中身までもが楽譜の上にぶちまけられた。
「うわあ……」
二次被害。今どき小学生でもやるかどうかというほどに鮮やかなものだった。
と、見ている場合ではない。
「だ、大丈夫か」
またも停止してしまった戸塚の教科書やらなにやらを拾うべく俺は前に出る。一瞬遅れたのを怪訝に思って振り向くと、月地も月地でなにか「しまった」という顔をしていた。焦りのような、ひきつった表情だ。どうしたというのだろう。あまり口外されて嬉しくない話題を暴露されて、顔を引きつらせたいのはこっちなのだが。ふたりのリアクションが予想外過ぎてタイミングを逸した。
とにかく戸塚の足元に広がった教科書や楽譜をかき集め、そろえていく。途中でようやく戸塚もまたぎこちなく動き出し、俺と月地からそれぞれを受け取った。
一体どうしたというのだろう。俯き気味になっている戸塚の顔をさりげなく覗き込むと、戸塚はあろうことか蒼白になっていた。
「どうしたんだ、戸塚。体調悪いのか」
「――好きな人、いるの」
低い声だった。一瞬誰から発されたのか周囲を見回すところだったくらいだ。だが今の生徒玄関には俺と月地と戸塚しかおらず、二度聞くまでもなくそれは戸塚の声だった。
「え、いや、好きな人が、とかそういうわけじゃ……」
「――誰」
「や、だからさ」
俺はなにかかなりマズい気がして必死で言い繕おうとするのだが、戸塚はまるで聞く様子がない。聞いたことのない低い声で、
「――もしかして、やっぱりあのピアノ教室の先生?」
「いや、だから、その」
俺がなにかを言い切ることを許さず、戸塚は床にぶちまけていた全てを胸に抱えるとすっくり立ち上がった。
目線を合わせてしゃがんでいた俺と月地は自然、戸塚を見上げる姿勢になる――けれど、戸塚の表情は陰になって見えなかった。口元だけが、真一文字に引き絞られた唇だけが見える。
その唇が、動いた。
「――御免。私急用ができたから、今日は行けない。じゃあ、ね」
ぼそぼそと言って、戸塚は俺たちに背を向けた。せっかく履いていた靴も脱いでしまって、上靴すら履かずに校内へ走っていった。
その姿を呆然と見送って、俺と月地はゆるゆると立ち上がる。
「……なんというか、その」
全く状況の推移が呑み込めていない俺に対し、月地は頬を掻きながら務めてこちらを見ないようにしつつ、
「――すまん」
「せめてなにに対して謝っているのかくらいは教えてくれないか」
なにがどうなったっていうんだ。




