お目覚め
黒槇さんの追及をなんとかかわして、申し訳程度に『カノン』の手ほどきを受け、後はふたりで好き勝手に弾き散らしているうちに、時間はあっという間に過ぎてしまった。
気が付けば窓の外は真っ暗。俺はともかく、黒槇さんはひとりでは夜道は危険……と。
「――ん……んう、んあ?」
ここまでずっと深く眠っていた伊咲さんが、ここにきてようやく目覚めたようだ。半覚醒の朧げな目をこすりながら身を起こし、ぼんやりとピアノの前にいる俺と黒槇さんを見る。
「ん、あれー、菅生くんに、晴夏ちゃん……」
状況を把握が追い付かないようで、周囲をきょろきょろと見回す。けれど、覚醒していくにつれてだんだんと掴んでいったらしく、がばっと勢いよく時計を確認するや否や、
「ぎゃあぁぁぁぁ!」
と叫んだ。
うおぅ。
初めて聞いた。人のこんな悲鳴。
「寝過ごした! 寝過ごしたんだよねえ!? それもふたり分も‼ うわあ……というか、来てたんなら起こしてほしいよ!!」
うおぉと伊咲さんは頭を抱えてのたうち回る。余程ショックだったようだ。その様子を、俺と黒槇さんは笑いながら見守る。
「……御免ね、ふたりとも。ちょっとだけ休むつもりだったのに……」
ひとしきり騒いで落ち着いたらしい伊咲さんは、しゅんと肩を落としつつ俺たちに頭を下げる。俺は慌てて手を振りながら、
「いやいや、疲れてたんですよ伊咲さん。仕方ないですって。それに、起こさなかった俺も黒槇さんも悪いわけですし」
「でも……レッスンが。お金もらってるのに」
「大丈夫ですよ。ちゃんとふたりで練習してましたし」
ね? と黒槇さんを見ると、黒槇さんも頷いてくれた。俺はさりげなく楽譜を鞄へしまいながら伊咲さんに笑いかける。
『カノン』のことは、まだ秘密だからねえ。
そう? と一応それ以上落ち込むことはなさそうな伊咲さんだったけれど、やはり失態は失態として反省せずにはいられないようで、俺や黒槇さんが帰る段になっても肩を落としたままだった。
「そんなに気に病むことないですよ伊咲さん。疲れてたのなら仕方ないですし……もしもまた同じことがあったら、今度はちゃんと起こしますから」
「……そう? 同じことはしないつもりだけれど、もしもあったら、お願いするね。……ありがと」
別れ際に、やっと伊咲さんは弱々しくではありながら笑顔を見せてくれた。はにかむような笑み。
「……菅生くんは、優しいね」
「え、い、いや、そんなこと、ないです」
一瞬、一瞬だけどきっとして、俺はそんな自分を誤魔化すように言い繕い、そそくさと帰宅した。
俺が伊咲さんに抱いているのは、憧れだ。
だから、決してこれは、恋心ではないはずなんだ。




