確かに抱いたこの感情は
自分の鳴らす音が知っている音楽に繋がっていくのは楽しかった。だから、いつの間にか自分の時間が過ぎ、次の子までの空き時間を終えてもまだ俺は弾いていた。いつしか夢中になって、必死でガンガンと鳴らしていたけれどそれでも伊咲さんは寝返りを打つ程度で起きる気配がない。ちょっと心配になるくらい熟睡している。
そんな俺が我に返ったのは、俺の次の時間の子がやって来たからだ。
「こんにちは――あれ、おにーさん?」
戸を開けて入ってきたのは、黒槇さんだった。ピアノを前にしている俺を見て怪訝な顔をし、ソファで眠っている伊咲さんを見てさらに驚いた顔をする。
「あれー、せんせー寝てるの」
「うん。俺が来る前から寝てて、そのままにしてみた」
「練習は?」
「あー……自主練かな」
自主練とは咄嗟に出た言葉だが、我ながら的を射ているような気もした。へえ、と言いながら黒槇さんは鞄を置き、こちらへやって来る。
「それじゃあ私も自主練する」
「いいよ。――あれ、でも、黒槇さんってこの時間だったっけ」
訊くと、俺に代わって椅子に座りながら黒槇さんは首を振る。
「違うよ。今日だけ。いつもこの時間に入っている子が、今週だけ代わってくれって」
「そうなんだ。伊咲さんは知ってるの?」
「知ってるよ。――なんか椅子が生温かくて気持ち悪い」
「失敬な」
ちょっと大げさに憤慨してみせると、黒槇さんは悪戯っぽく笑って返した。それから、譜面台に開きっ放しになっていた俺の楽譜に目を留める。
「あれ、『カノン』? おにーさん、『カノン』弾くの?」
「え、あー、まあね。いつかはね。――今はまだ、伊咲さんには内緒」
しー、と唇の前に人差し指を立てると、へえ、と黒槇さんはにやにや笑う。
「せんせーに内緒なんて、悪いんだ」
「いや悪くはないと思うけど……」
「それで、どこまで弾けるの?」
ぺらぺらと楽譜をめくりながら、黒槇さんは訊いてくる。うーん、と俺はちょっと言い淀んでから、
「ま、まだちょっとだけだよ。今日始めたばっかりだし……」
「そっか」
ひとつ頷いて、黒槇さんはおもむろに弾き始めた。それも『カノン』を、初めから。
「え」
俺は驚きに目を見開いた。あろうことか黒槇さんは、ほとんどミスもなくしかも両手で弾いている。あっという間に、俺がさっきようやく右手だけで到達したところもクリアしてしまった。
それからもう少し行ったところで「あ」と指が詰まり手を止める。
「間違っちゃった」
「凄いね……弾いたことあるの?」
俺が心底から感嘆して言うと、へへ、と黒槇さんは得意げな顔になった。
「ないよ。でも頑張ればこれくらいは弾ける」
「へえ……凄いな。俺なんて全然、この辺りまでしか弾けないよ。しかも右手だけだし」
俺がページを戻して指さすと、黒槇さんはさらに鼻を高くして笑う。
「まあね。練習だよ練習。おにーさんも練習すればこれくらいは弾けるよ」
「そうかな……そうだね、練習だね……」
さすがに小学生に先を越されていると目の前に見せられると、俺も思うところは少なくない。これではいけないと決意を固めていると、「……ねえ」とややトーンの下がった声がした。
黒槇さんだ。視線も下がり、膝の上にそろえた手を見下ろしている。
「おにーさんって、おにーちゃんと友達なんだよね」
「……うん? ああ、うん」
やや紛らわしいが、おにーさんは俺でおにーちゃんは月地のことだろう。だから俺は頷く。
「それが?」
「おにーちゃんって……その、やっぱりモテるの?」
持てる?
初めはなんのことかとさらに首をひねるところだったが、これもすぐに合点がいった。つまり、女子に人気かというところだろう。
「えー……うーん、どうなんだろうな」
そんな話は聞いたことが、あっただろうか。でももともと俺にそういう浮いた話が入ってこないからなあ。
首をひねる俺の様子を悪い方に取ったようで、黒槇さんはくしゃっと表情を歪めてしまった。
「やっぱり……」
「いや、俺じゃそういう話はわからないというか……でも、どうしてそんなことを?」
いや、訊いておいてなんだけど、薄々予想はついている。果たして黒牧は、唇を尖らせながら俯いた。手持無沙汰に両手を鍵盤に置き、適当に鳴らし始める。
「……別に。訊いてみただけだけど」
「ふうん――」うーむ。俺はちょっと考えて、「……好きだとか?」
この間のお返し、くらいのつもりの軽い一言だったのだけれど、どうやらど真ん中だったらしい。黒槇さんはがばっと顔を上げて俺を凄い目で睨み付けてきた。
しかも無言。ちょっと怖い。
「……あの」
「なんで」
「はい?」
「なんでそう思うの」
なんでもなにも。見るからにそんな感じだし……この間月地が迎えに来た時も。年相応、と言えなくもなかったんだけれどね。
「いやー……なんとなく?」
とにかく怒られるのは嫌だと曖昧に濁す。黒槇さんは、そう、とつぶやいてまた俯いた。それも、今度は先程と違い力なく。
「黒槇さん?」
「……おかしい?」
「うん?」
ぼそっとつぶやくような言葉に訊き返すと、黒槇さんは依然として俯いたまま、
「おかしいかな。おにーちゃんを好きだったら」
「え」
それはまた、なんと答えたものか。恋愛事の相談なんてされたことないし、どうしたらいいかもわからないよ。
「おかしい、って?」
「私、小学生なのに、高校生のおにーちゃんを好きになったら、ってこと」
ちょっと怒ったような顔になって、黒槇さんは俺を見上げる。
うーん、歳の差か。差にしておよそ七。
「いや……別におかしくはないと思うよ」
「そう?」
不安げな黒槇さんに、俺は頷いて返す。
「大人になっちゃえばね、歳の差なんて大した違いじゃないよ。俺の両親だって四歳違うし、十歳くらい離れてたって問題にはならないし」
小学生と高校生というと、ちょっと離れていてやや危ない匂いもするけれども。
「大人になったらなんにも関係ないだろうね。だから、そんなに気に悩むことはないんじゃないかな」
うん。
……そ、そんな感じで、どうですかね。
こういう話に向き合ったことがないから、なんだかふわっとした話になってしまったけれど。黒槇さんを窺うと、また手許に視線を落としながらなにかを考えている様子だった。
けれど、その横顔に険はない。
それにしても……うーん。前々から思っていたことではあるけれど、黒槇さん、ませているなあ、というか。
いや、今どきは普通、なのかな? それとも昔からなんだろうか。小学生の恋愛事情なんてわからない。恋に恋する、とはよく聞くものだけれど、それとの区別もわからない。
というか、そもそもの話が、
「俺、人を好きになったことがないからなあ……」
「え、そうなのおにーさん⁉」
「……んえ、あ、な、なにが?」
知らず言葉にしていたのに遅まきながら気づいて慌ててすっとぼけるが、良くも悪くも純粋に無邪気である小学生は誤魔化せない。しかも、それが恋愛事となるとなおのことのようで、黒槇さんは瞳を爛々と輝かせる。
「人を好きになったことがないって、なんで⁉」
「いや、なんでって言われても……」
返答に窮して俺は視線を逸らす。そんなもの、理由があるものなのだろうか。そういうのは縁というもので……そりゃまあ、高校生ともなれば同級生でも色恋に騒いでいる人は多いけれども。
彷徨っていた視線が、なんとなくソファで眠っている伊咲さんを捉える。俺の視線を追った黒槇さんは、やおらにやにやと笑みを浮かべた。
「――やっぱりおにーさん、せんせーのこと好きなんじゃないの?」
「ええ? いや、そんなことは……」
……うーん。
人を好きになったことがない。だから、人を好きになるというのがどういう状態なのかも知らない。俺が伊咲さんを目にしたときに感じる感情が恋愛感情なのか、それ以外のものなのかは同定しようがない。
しかし――ひとつ、はっきりとわかるものはある。俺が伊咲さんに抱く感情。
憧れだ。
夢を、目標を持ち、求め、実現しているであろう伊咲さんの姿。
将来になにも見ることのできていない俺からすれば、その姿はまぶしい。
でもこの気持ちは、決して恋愛感情ではないだろう。
初めて会ったとき、初めて伊咲さんを目にしたときに抱いた感情の正体も、今ではなんとなくわかる気がする。あのときは思わず一目惚れかなにかかと思ってしまったが、あれもまた憧れだ。夢を実現していく姿が、輝いていて、まぶしくて、だからこそ憧れた。
俺が抱いたのは、決して恋愛感情では――
「…………うーん」
「せんせーのこと好きなんでしょ? ねえねえ、そうなんでしょ?」
どうしてこう、人の話になるとこんなに積極的に前のめりなのか。まあ、人の色恋沙汰だしねえ……しかし分が悪い。
「そ、そんなことよりさ、『カノン』教えてくれないかな。俺、弾くの今日が初めてでね。まだ伊咲さんに内緒だから、習うこともできなくて。黒槇さんのわかる範囲でいいからさ……」
「えー、もっとせんせーの話がしたいー」
それはもう勘弁して。




