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カノン(伊咲貴音音楽教室)  作者: FRIDAY
壱 その指先で手繰る音
14/57

お疲れ様です

 すっかり秋が深まって、冬が近づいてきていることを肌で感じられる季節になった。雪こそまだ降らないけれど、吐く息は白く曇る。初雪も近いだろう。


 雪が降ったら、学校へは自転車で通えなくなる。そのうちにバスの定期券を買ってこないと。そんなことを考えながら寄り道することもなく学校から家へ直帰し、自転車を車庫に停めると隣家へ向かう。


 俺のレッスンは今日のふたり目だ。高校生よりも小学生の方が帰宅時間が遥かに早いから、小学生の子がひとり、先に受けている。俺はその後で、そのさらに後にやや時間を空けてもうひとり小学生が入っている。

 前の子のレッスンは俺が来る三十分前には終わっているのだが、親の迎えが来るまで伊咲さんと遊んで待っていて、俺の時間になってもまだいることも少なくない。けれど今日は既に帰宅しているようで、いるときならば聴こえてくるピアノの音色もなく、静かだった。


「――お邪魔しまーす」

 呼び鈴を鳴らし、戸を開けて中に入る。いつもならここでぱたぱたと伊咲さんが出てくるのだけれど、今日は珍しくなんの音もしなかった。


「伊咲さん?」

 奥へ呼びかけながら靴を脱ぎ、上着をコート賭けに引っ掛ける。しかし伊咲さんからの返事はなく、俺は少しの不安を覚えた。

 ちょうどトイレにでも入っているのだろうか。部屋の明かりがついているのは外からもみえていたから中にはいると思うのだが。たまたま席を外しているというのか、それとも、

 ……なにか、あった?


 万一に備えて足音を忍ばせ、スマートフォンを取り出しいつでも通報できるよう備えながらピアノのある部屋へ向かう。

 戸口で耳を澄ませてみるが、中から物音は聞こえない。――どのみち既に呼び鈴を鳴らし、呼びかけすらしているので俺の来訪は気づかれていることだろうが、用心だ。


 数秒をさらに待って、そっと戸を開けた。隙間から中を一望する。――ふ、という吐息とともに、気も抜けた。警戒を解きながら戸を大きく開ける。

「全く、なにかあったんじゃないかと心配になりましたよ……」

 やれやれと苦笑しながら、俺はソファに近づいた。

「――ねえ、伊咲さん」

 ソファに横たわる伊咲さんの顔を覗き込む。


 伊咲さんは、肘掛けを枕にしてすやすやと寝息を立てていた。再三声をかけているにもかかわらず身じろぎもしないところから見ると、眠りは浅くないようだ。

 安らかな寝顔だ。


「……やっぱり疲れてたのかな」

 いつ会っても、伊咲さんははつらつとしていたもんな。ときどきぽろっと、不安だったとかいうようなことをもらすことはあったけれど、ここまで無防備に見せているのは初めてだ。思うに、先の子が思いのほか早く帰って俺が来るまで時間が空いたから、ちょっとだけソファに横になったのだろう。それで寝てしまった、と。

 想像に難くない。


「――――と」

 我に返ると思いのほか長い時間伊咲さんの寝顔に見入ってしまっていたようで、それも結構な距離まで顔を近づけてしまっていて、慌てて俺は身を引いた。今のタイミングで目覚められたらどぎまぎしてしまうところだが、幸いにして伊咲さんはすぅすぅと眠っている。


「……無理に起こすのも、なあ」

 独白する。こう言っちゃあ悪いが、月謝は払っているもののそこまで本腰を入れた習い事ではない。それに、この寝顔を崩してしまうのもなんだか気が引ける――しかし。

 俺はピアノを見る。

「練習はしたい、かな」


 ちょっと考えてから、よし、と俺は頷いた。自分の練習用の楽譜を取り出してピアノの前に座り、所定の位置に立てかける。

 練習は、する。その途中で伊咲さんが起きれば、それはそれでいいだろう。さすがにピアノの音を立てればすぐに起きるかもしれないが、そこは不可抗力としておく。


「――――」

 ポーン、と。

 試みに一音、鳴らしてから伊咲さんの様子を窺うが、伊咲さんが目覚める気配はない。余程深い眠りであるようだ。俺は苦笑してから立ち上がり、居間に失礼してタオルケットを取ってくると、そっと伊咲さんにかけた。その過程で見た居間の惨状は克明にしないでおくが、恐れていたほどではないと言っておく。少なくとも、ゴミが溜まっていないだけ綺麗だ。


 ピアノの前にちゃんと座って、いよいよ練習を始める。内容は、とりあえず前回に指摘されたことの復習だ。全体に、左手のリズムが遅れがち。左手の二重音となると明らかに遅れてしまう。だから、そこを何度も繰り返す。


 左手、左手、左手。

 始めたばかりの頃、ピアノなんて右も左もわからなかった頃には、右手と左手を別々に動かすだなんてできるわけがないと思っていたが、練習すればできるものだ。勿論一朝一夕にできるようになったわけではなく、レッスン以外の時間に何度も練習していたお陰なわけだけど。少なくとも、利き手である右手の動きに左手が引っ張られるというようなことはあまりなくなった。ただ、遅れる。

 だから、練習だ。

 もう数か月で完全に受験生であるというのに、勉強もしないでそんなことばかり、とは自分でも思うのだけれど、そりゃあ勉強するよりこっちの方が楽しいのだから仕方があるまい。

 なにより、早く弾けるようになりたいのだ。

 『カノン』を。


「…………ふう」

 気が付けば十五分ほど、全く同じ練習を反復していた。単調な動きなのだが、一度集中すると飽きることなく続くものだ。多少はましになっているのだろうか。確認しようにも自分ではいまいちピンと来ず、伊咲さんを見るもぐっすり寝入っていた。これだけ鳴らしても起きないのだから、相当疲れていたのだろう。


「――ふむ」

 ちょうどいい、とふと思い立った。自分の鞄を漁って、まだ真新しい楽譜を取り出す。

 パッヘルベルの『カノン』だ。


 実は、伊咲さんには内緒で密かに購入していた。探すのを手伝ってもらった戸塚にはさんざんからかわれたりもしたが、とにかく手に入れた。――勿論、今の俺がまともに弾けるなどとは全く思っていない。ただ、自分が目標としている曲がどのようなものなのか、楽譜がそこそこ読めるようになったこともあって調子に乗った勢いで買ったのだ。当然の如く打ちのめされたが。弾けるようになる気がしない。

 伊咲さんからしてみればまだまだ早いというところだろうけれど、ひとりでピアノに触る機会というのも滅多にない。ちょうどいいから、ちょっと弾いてみよう。


 開いた楽譜を譜面台に置く。勿論、中学生までのようにカタカナでドレミを振るようなことはしていない。この場で読むのだ。既に何度となく目は通しているし、初見ではないのだが……。

「…………」

 両手を鍵盤に乗せたところで固まった。ここからどうしたらいいのかわからない。いや、弾けばいいのだけれど……弾き始めるのが怖い。

 五線譜に整列する音符を、追うことができない。


「……ふう」

 吐息した。そして、一音だけ鳴らしてまた伊咲さんの様子を見る。

 伊咲さんは起きない。

 だから俺は、今度は右手だけを鍵盤に置いた。


 少しずつ、少しずつだ。俺には別に才能はない。だから、一歩ずつ練習で踏み固めていくしかない。中学までやっていた、陸上競技と一緒だ。練習あるのみ。

 そう念じて、俺はたどたどしく楽譜を追い始めたのだった。


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