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カノン(伊咲貴音音楽教室)  作者: FRIDAY
壱 その指先で手繰る音
10/57

最近の小学生は

 気が付けば思いのほか長い時間を戸塚と話していたようで、『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』と他数枚のCDを借りて店を出た頃には日が傾いていた。家に着くころにはすっかり夕焼け空だ。


「――ん」

 帰路としては、俺の家は伊咲さんの家の向こうにあって、だから伊咲さんの家の前を通ることになるのだが、そこに誰かが立っていた。遠目に見ているうちは、身の丈や髪形服装から女の子だろうとしかわからなかったが、細部が見える距離まで近づくと、レッスン初日に伊咲さんに『魔王』を所望した女の子だとわかった。


 近づいてくる俺に気が付いたようで、女の子も顔を上げてこちらを見る。

「あ――おにーさん」

「菅生だよ。菅生真幸。君は、えっと」

 『魔王』の子。

「それじゃあまるで、私が魔王の子供みたいじゃない……私は黒槇晴夏だよ、おにーさん」

 そうだそうだ、確か伊咲さんも、ハルカちゃんと呼んでいた。


「覚えておくよ、……えっと、黒槇さん。それで、ここでなにしてるの? レッスン?」

 もうすぐ日が暮れるけど。黒槇さんは首を振った。

「レッスンは終わったの。今は次の子たちがやってる。私は、お迎え待ち」

「お迎え待ち」繰り返してから、俺は首を傾げる。「それなら、中で待っていればいいんじゃない? もう暗くなるから、外は危ないよ」

 不審者も多い昨今だしね。

「不審者……おにーさんみたいな?」

「失敬な。俺のどのあたりが不審者だと」

「冗談だよ。――お迎え、遅れるってメールがあったの、外に出てからなんだ」

 言いながら、こちらにスマートフォンを見せてくる。子供用、とかではなく、大人でも使うタイプのものだ。


「……黒槇さんって、小学生だったっけ」

「うん。四年生」

 小学四年生でもうスマートフォンなのか……。


 昨今の家庭教育についての憂慮は置いておくとして、つまりはあれだ、一度出てしまったから中には戻りにくいということだろう。これがもっと幼いならば躊躇いなく戻るところ、なまじ自意識に目覚めてしまったために戻るのも恥ずかしいとか。わからないでもない。


「迎えはすぐに来るの?」

「うん。おにーちゃんが、部活がちょっと長引いたんだって」

 おにーちゃん。兄か。妹の迎えに来るとは、なかなか良き兄であるようだ。まあなんであれ、ちょっと立ち話でもしていれば来るだろう。


「お兄さんって、なんの部活に入ってるの?」

 ちょうど話題に出たところだったし、話のネタとしては悪くないだろう、という思いでのチョイスだったのだが、これに黒槇さんは思っていた以上の食いつきを見せた。

「陸上部だよ! なんだっけ、短距離でね、百メートルと二百メートルがすっごい速いの!  いっつも大会で入賞してるんだ。でね、今度のおっきな大会でも優勝するぞって、毎日練習頑張ってるの」

 ほう、それは凄いな。月地みたいなやつか。あいつも速いんだよなー。

「走るの速い人って、やっぱりかっこいいよね」

 バスケとか野球とかが上手なやつと同じくらい、走るのが速い人ってかっこいい。――競技に限らず、一芸に秀でた人っていうのはかっこいいものだ。特にスポーツでは。


 俺の内心にちょっと綺麗ではないなにかが渦巻いたが、そんなことは知る由もなく、黒槇さんはうんうんと頷く。

「かっこいいよ。足も速いし、勉強もできるし、他にもスポーツできるし、優しいし」

「ハイスペック兄……」

 そんなやつが現実にいるのか。羨ましいことだ。足すら取り立てて早くもなかった俺は、さしてかっこよくもなかったというのに。月地にしたって、足が速くてかっこいいけれども、でもあいつ大して勉強ができるわけでもないからなあ。できないとも言わないけど。「黒槇さん、お兄さんが好きなんだねえ」


 俺としては何気ない一言だった。尊敬しているとか、憧れているとか、よく見ているという意味でのそれだったのだが、どういうわけか黒槇さんは見るからに慌てだした。

「そ、そんなこと、ないよ? 全然、全然!」

「そんな勢いで否定するとお兄さんがかわいそうなんだけど……」


 あれ、違ったのかね。首を傾げる俺だったが、しかし今度は慌てる黒槇さんから思わぬ槍が入った。

「おにーさんこそ、せんせーのこと好きなんでしょ」

「え、俺?」

 思わぬ方向へ急展開だった。せんせーって、伊咲さんのことだろうけれど、そう見えるんだろうか。


 伊咲さんの顔を思い出してみる。

 ……ぬ。


「や、いやいや、そんなことは……」

「うそ。だっておにーさんのせんせーを見る目って、なんか違うもん。こう……いやらしいというか」

「いやらしいとな⁉」


 それは絶対的に心外だ。普段の俺の伊咲さんを見る目がどんな感じなのかは確かめようもないが、いやらしいということは絶対にないと否定する。

 俺は変態じゃない。


「そっかなあ。てっきり、おにーさんが来たのって、せんせーがいたからだったと思ってたんだけど」

「そんな昼ドラみたいな設定……」現実にあってたまるか。


 昼ドラ? と黒槇さんは首を傾げる。どうやら知らないようだ。まあ小学生でも普通なら学校に行っている時間だろう。知らないでよろしい。

「でも、他の子たちの中で、おにーさんが一番年上だし。部活とか入ってないの?」

「部活は、入ってないんだけど」

「え、なんで?」

 ド直球の質問は、やはり年相応に遠慮も躊躇いもない。けれど俺は、戸塚に対してそうだったように、曖昧に濁すしかない。

「まあ、いろいろとあったりなかったり、ね」

「それってあるの? ないの?」

「だから、あったりなかったり、なんだよ」

「よくわかんない。つまりあるの? ないの?」

 むう。やはり純朴な小学生には曖昧な誤魔化しは通じないか。


 明確になにか言えるようなことはないので、俺がどう言い逃れしたものか窮していると、救いは俺の後方からやってきた。

「――あ、おにーちゃん!」

 俺の背後にふと視線を向けた黒槇さんが、満面に喜色を浮かべてその誰かを呼んだ。いいタイミングだおにーちゃん助かったと振り返ると、夕日の逆光で顔が見えない。

 しかし声は聞こえる。


「おう、晴夏。遅れて御免な。――と、なんだ、菅生?」

 その声は、月地?

「やっぱり菅生だ。晴夏が不審者と話してるかと思ってちょっと警戒してたんだけど」

「え、なに、俺ってそんなに不審なの……?」

 黒槇さんにもそんなこと言われたし。


 やや不安になって自分の姿を見下ろしている俺の横をすり抜けて、黒槇さんは月地に抱き着く。

 懐かれてるねえ。


「というか、月地って妹いたっけ」

「いいや。晴夏は妹じゃなくて、近所の子だ。幼馴染っていうほどでもないけど……」歳も離れているしね。「ま、妹みたいなもんだよ」

 ふうん、と頷きながら見ると、月地に頭を撫でられている黒槇さんの顔は、ちょっと不満そうだった。

 おやおや?


「晴夏はレッスン終わったわけだけど、お前はどうしたの? これからなのか」

「いや、俺は」

「はっ! お前まさか」

 俺が答えるより先に、月地は急に表情を険しくした。え、なに、と見返すと、月地は黒槇さんを背後に庇うようにしながら、

「ここで晴夏を待ち伏せして、いやらしいことを」

「しねえよ! するか!」

 断じて!


「俺はCD借りて帰ってきたところだよ。黒槇さんとはここで偶然会っただけ」

「そうか。ならいいんだが」

 冗談とも本気とも取れない顔で言って、月地は黒槇さんと手を繋ぐ。そうしてみると、結構兄妹に見えるな。


「んじゃ、俺らはもう帰るよ。暗くなったら危ないしな。――ほら、晴夏。挨拶」

 月地に促されて、黒槇さんは頷いた。こちらに向き直り、ぺこりと頭を下げて、

「ばいばい、いやらしいおにーさん」

「待ってそこは訂正して!」

「あ、そうだ、菅生」

 一度向こうを向きかけた月地が立ち止まり、肩越しに俺を見た。

「なに?」

「ほら、夏休み前に言ってただろ。俺とお前と戸塚で、なにかして遊ぼうぜって。今度の水曜とかどうだ」

「水曜?」来週の水曜日か。伊咲さんのレッスンは、俺は毎週火曜日の午後だから、「大丈夫だけど、なにするんだ?」

「そうだな、とりあえず飯でも食って、カラオケかボーリングだな」

 とても学生らしい遊びだ。お金がかかる。


「まあ、いいよ。来週の水曜ね」

「おう。戸塚には俺から連絡しておく。じゃ、またな」

 うん、と手を振って見送る。月地は片手で一往復のみだったが、黒槇さんは少しの間こちらを見ながら手を振ってくれた。それも、月地がなにか話しかけたところまででそちらへ向き、遠目にも楽しそうに応じている。


「……うーん」

 初めは、なんというか生意気だなあという印象だったけれど、思いのほか素直なところもあるようで。しかし。

「最近の小学生は、みたいな?」

 スマートフォンもそうだけれど、進んでいるというか、ませているというのか、ねえ。


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